98. 二人の少女の秘密と黒い服の女の謎
◇
全く水汲みに行かないのも気付かれて怪しまれるかもしれないと思い、ナギは今でも、朝に一度はなるべく井戸まで行くようにしている。
稀ではあったが早朝から外に誰かがいることもあり、そんな時には、二度、三度と往復することもあった。
筋力や体力を維持するのに役立つと思えば、それもそれ程苦ではなかった。
冬の冷気が支配する静寂の中で、鎖の音と、鶏がクルクルと喉を鳴らしては羽ばたく音だけが響いている。
木戸を通るとまだ星が見える程に薄暗い世界に、領主の館が黒々として聳え立っていた。
捕まりようも見つかりようもない筈だが、ラスタが今そこに忍び込んでいるのだと思うと、やはり少し緊張する。
不安を胸に押し込めて、ナギは井戸まで歩くと、縄に繋がれた小さな桶を水中に落とした。
少年が水を汲み出している内に東の空が白み出し、目覚めた鳥達で森が一斉に騒がしくなる。
二つの桶を満たすと、少年は片方を左手に提げ片方を右肩に担いで、来た道を戻った。
小屋に帰り着くといつもいる筈の小さな竜の姿がなく、柵の向こうで牛達だけが落ち着かなげにしていた。
奇妙な感覚に陥って、少年は少しの間、小屋の入り口から中を見つめた。
目の前の光景にあまり現実感がない。
記憶の中の、昔の景色を見ているようだった。
もうそのくらい、ラスタのいる毎日の方がナギには当たり前になっていた。
まだ帰って来ていない――――――――――――――――
それからほぼ一年振りに、ナギは一人で朝の仕事を始めた。
黒い服の女のことも気にしつつ、しばらくナギは黙々と床の掃除をしていたが、重い牛の糞と汚れた敷き藁を半分以上小屋の外に掃き出した頃には、少年は段々と不安になり出した。
まだ帰って来ない――――――――――――――――
ミルが見つからなかったんだろうか。
ミルとラスタの両方が心配で、落ち着かない気持ちになった時。
ぽんっ。
「うわっ?!!」
目の高さに小さな少女が現れて、ナギは死ぬ程驚かされた。
「ラスタ!!」
何もすぐ目の前に現れなくたって!
本当に心臓に悪すぎる!
少年は思わず抗議の声を上げ掛けたが、宙に座る少女がむっつりと不機嫌そうにしているのを見て、口をつぐんだ。
宙に胡坐で座り、少年と目を合わせないまま、竜人の少女は結果を告げた。
「……地下牢だった。」
ナギの顔が、さっと青ざめる。
少女の視線は、ちらりと少年の方に向いた。
「………気になるのか。」
気になるに決まっている。
だが少年は、頷くことも出来ずに押し黙った。そうと答えれば、ラスタは明らかに嫌がりそうだった。
少しだけ間を置いて、応える代わりにナギはラスタに尋ねた。
「………明かりは。」
「点いていなかった。あれだと人間は何も見えないだろう。ミルはよく平気だな。」
「――――――――――――――――――」
窓のない地下では、星や月の明かりも見えないだろう。
罪人を罰するための部屋が、快適に造られている筈もない。
でもミルは、一度も地下牢のことを言わなかった。
自分を心配させまいとしたんだ―――――――――――――
他人の考えを、完全に知ることなんて不可能だ。
でもこの件は、ナギはミルの思ったことにほとんど確信が持てる。
ナギは青い顔で立ち尽くし、竜人の少女はそんな少年の姿をしばらく見つめていた。
そのまま数秒が過ぎ―――――――――――――――
「ふんっ。」
小さく頬を膨らませたラスタがぽんっという音をさせて消えた時、ナギははっとした。
「ラスタ?」
少年は慌てて周囲を見回したが、少女の気配はどこにもなかった。
少しの間待ってみたが、ラスタはそのまま姿を現さなかった。
困惑しながら、やがてナギはそろりと手を動かした。
ナギには自由になる時間がほとんどない。床掃除の続きをいつまでも放置している訳にはいかなかった。ゆっくりと掃除を再開しながら、ナギはだが、まだラスタの気配を捜していた。
川へ行った――――――――――――――――?
小さな黒竜がどこで何を狩っているのか、ナギがようやく知れたのは昨日のことだ。
あそこに狩るような獲物が何かいるだろうかと疑問に思いつつ、ナギはずっと、ラスタは丘で狩りをしているのだと思っていた。
だが黒竜が毎日出掛けて行っているのは、丘というより、丘の向こうの川であったのだ。
館の中で使われている水は近くの川から引かれていると聞いてはいたが、ラスタに教えられるまで、ナギはその川が丘の反対側にあるとは知らなかったのである。
ナギにとってはなかなか衝撃的だったのだが、ラスタはそこで「魚や虫」を獲っていると言う。ラスタが言うには、「竜の時には大体何でも食べられる」らしい。
「虫が食べられる」と分かっていればと思う反面、「ラスタが虫を」と思うとナギはちょっぴり認め難くて、なので想像図は、「綺麗な蝶」にしておいた。
ラスタが人の姿になって、ようやくそんな答え合わせも出来たのだ。
ラスタとナギが一緒に過ごせる時間は、ほとんど牛小屋の掃除の時しかないのに。
今日はもう、川へ行ってしまったのか――――――――――――――?
ショックが続いて、掃除を再開してみたものの、ナギの動きは緩慢としていた。
これで夜までラスタには会えない。
夜には機嫌が直っているだろうか。
と。
突然、床の汚れが川が流れていくように小屋の反対側に押し出されて行った。
はっとして、ナギは顔を上げた。
ぽんっという音がして、右手を小屋の裏口に向けた少女が、胡坐をかいたまま宙に現れる。
「ラスタ―――――――――――――――――!」
少女はまだ憮然としていた。
だが狩りに行ってしまったのではなかったのだ。
そんな少女の姿をしばらく見つめて。
「ありがとう………。」
安堵と嬉しさを織り交ぜて少年がそう言うと、不機嫌そうな顔のまま、少女の口の端がにへらっと笑ったものだから、ナギも思わず笑ってしまった。
「笑うな。」
そう言ったラスタも、もう笑い出している。
ここでムキになったりしない辺りが、ラスタは時々、やっぱりちょっと大人びていた。
◇ ◇ ◇
小屋の掃除と牛の餌やりを二人で終えて、牛乳を甕に詰め終えると、「行って来ます」と言い合って、二人は別れた。
ラスタは今日も書庫で地図を探してくれると言う。
ナギは先ず鶏小屋の世話を終え、それから馬小屋へ向かおうとした。
すると館の使用人に先導されて、黒い制服の一団が木戸を入って来た。
もう来たのか―――――――――――――――――
朝起きた時から一応ずっと警戒し続けてはいたものの、館の人間の案内付きで来るのならもう少し遅い時間かもしれない、と予想していた。
この時間だと、まだ全員朝食前ではないのかと思う。
少年は総勢六名の一行のために道の端によけたが、頭は下げなかった。
奴隷などそこに存在していないかのように振る舞うヴァルーダ人は、奴隷が頭を下げなくても、あまり気にしないことが多かった。今も少年は、誰も自分の方を見ていないと思ったのだ。
ただその中にいる昨日の不気味な女中のことだけは気になって、彼らと擦れ違う時、ナギは横目でその女の姿を追った。
するとその瞬間に、女の薄茶色の瞳がちらりとナギを向いた。
その女と目が合って、少年はぞっとした。
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