97. 少女の叫び
ミルは机の横で立ち尽くした。
少女は暖炉の横を通り過ぎ、部屋の一番奥にいた。
仕事を離れた不審な行動であることは明らかで、誤魔化しようがなかった。
金褐色の髪の男の表情は、誰が見ても分かるくらいの激しい憤りに満ちていた。だがその怒りは、少女奴隷の行為に向けられたものではなかったらしい。
扉を壊しかねない勢いで部屋に踏み入って来たハンネスは、ミルを見て一瞬虚を突かれたような表情をして、それから客人のために小綺麗に取り繕われた、普段と違う少女の姿を呆けたように眺めた。
予想外の存在に出遭って、男は怒りを失念したかのようだったが、少女が書斎机の横にいるおかしさが分からない筈はない。
対象がなんであれ、「こっそり探るような行動」をしていたとハンネスに気付かれるのが怖くて、ミルはその場に凍り付いていた。
しかし領主の息子の反応は、思わぬ程に鈍かった。
ぼんやりと少女を見ていたハンネスの視線は、一瞬だけ書斎机に向いた。
机上に広げられている物を少女が見ていただろうことは、簡単に察しがついた筈である。
だがハンネスの視線はすぐにミルに戻り、地図について男が何かを言うことはなかった。ただ無言で、ハンネスはミルに視線を這わせた。
突然ミルは、それまでとは何か種類の違う恐怖を感じた。
その恐怖は、強い不快感を帯びていた。
本能的な何かが、「この部屋を出るべきだ」と自身に告げる。
凍り付いていたミルの体は、身じろぎするように微かに動いた。だがハンネスの反応を誘発するのが怖くて、まともには動けない。少女はただ、僅かに体を揺らしただけだった。
息も吸えずにいるせいなのか、口の中に唾が溜まるのを感じる。呼吸すら拒む喉をこじ開けるようにして、ミルは唾を飲み下した。
領主の息子には、声を荒げる様子も、手を上げる様子もない。奴隷に何かを命じるというのでもない。
それなら少女奴隷がここを立ち去ることに、問題はない筈だ。
灰の回収がまだだったが、奴隷の仕事の手順など、ブワイエ一家が理解しているとは思えないから、見咎められもしない気がする。
静かに深呼吸してから領主の息子に小さく一礼し、塵取りを右手に持って、ミルは扉に向かって歩き出した。
今最大の恐怖は、当の男が、扉と自分の間にいることだ。
じゃらっ……じゃらっ……。
今だけでも、鎖の音に消えてほしい。
小さな動物が息を潜めるように、視線を伏せ、ミルは静かにハンネスの横を通り過ぎた。
ハンネスの視線がずっと自分を追って来るのを感じる。
やがて開いたままだった扉から外に出ると、出来る限り音を立てずに、少女はその戸を閉めた。
どっ、どっ、どっ、どっ……
心臓が破れそうに速く打った。
全身から汗が噴き出す。
ここから走り去りたい。
ゆっくりと扉を離れて、廊下を歩き出す。体が震えている。
突然、ナギの姿が脳裏に浮かんだ。
でも鎖を外しても、もう自分は走れない。
この時初めて、ミルは足のことで声を上げて泣きたくなった。
ナギ!!
心に浮かんだ少年の姿に向かって、少女は叫んでいた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
目が覚めると、何気なく動かした足がびっくりする程に軽くて、少年はその幸福を噛み締めた。
今自分の足は、自由なのだ。
「おはよう」
ほとんど同時に目を覚ました、小さな相棒の頭を撫でる。
黒竜は嬉しそうにした後、すぐに少女に姿を変えた。
その「服」の色と形が、昨晩とまた違っていた。
形は昨日の夜の「服」に似ていたが、今度の色は薄黄色で、胸の周りに巻いた布には今朝は肩に掛かる部分がある。しかも首の周りを丸く囲ったその部分は、金属的な輝きを放っていた。
これも「肌」なの?!
今朝はそんな疑問を追究している場合ではないのだが、少年は思わず目を瞠って、金細工のアクセサリーを着けたかのようなラスタの首許を見つめた。
竜人の少女が心配そうな表情をして、それに気が付いて、ナギは慌てて彼女の杞憂を打ち消した。
「今日の『服』も凄く似合ってて、綺麗だ。」
「そうか!」
眩い程に美しい少女は、実に嬉しそうに笑った。
後で訊いてみると、ラスタは「その時思い付いた形を適当に」着ているらしい。だからその後もラスタの「服」は、ほぼ毎日、少しずつ違った。
ラスタに尋ねたいことはまだ沢山あったのだが、今朝は真っ先にすべきことがある。ナギはこの時は、疑問を胸に畳んだ。
「ラスタ。ミルの――――――――」
「分かっている。見てくればいいんだろう。」
「ありがとう。」
ラスタはやはり少しむくれたが、朝いちの使命のことはちゃんと覚えていてくれたらしい。
もう一つ、伝えなければいけないことがあり、すぐにも館に向かいそうな様子を見せた少女を、少年は呼び止めた。
「ラスタ。昨日の朝ここに来たヴァルーダ人が、今日も来るかもしれないから、気を付けて。」
「またか?」
真意が窺い知れないところがあったが、黒い服の女はこの朝に、家畜が見たいと言っていた。残念だったが、それがいつになるのか分からないので、ナギは先ずラスタに足枷を嵌め直して貰った。
ラスタも訝しむ表情をしていたが、不審な訪問者のことは、取り敢えず気を付けておくしかない。
そこまで済ますとナギに送り出されて、小さな少女は踵を返した。
ただナギは、ラスタが「部屋」から真っ直ぐに歩き出すとは思っていなかった――――――――高い位置にあるナギの「部屋」から、少女はそのまま足を踏み出したのだ。そこに床の続きがあるかのように。
驚いて息を飲んだ少年の前で、ぽんっ、と小さな音を立て、少女は跡形もなく消えた。
「―――――――――――――――――」
気配が一切消える。
これには本当に慣れない。
暗がりに牛だけが、声や音をさせていた。
夜明け前の薄暗がりに一人残されたナギは、数秒耳を澄ましてみていたが、やはりラスタの居場所は全く分からなかった。
だがラスタは牛小屋の壁も扉もものともせずに、外に出ている筈だ。
せめてまともな部屋であってほしい。
ミルのことを思いながら、少年は木靴を履いた。
ろうそくや薪を与えられていないナギは太陽の動きに合わせて生活させられていたが、館の中にいるミルは、朝も夜もナギより遅い生活をしている。
だからナギとラスタが起きてすぐの今なら、ミルはまだ自分の部屋にいる筈と思う。
梯子を降りると少年は「部屋」の下の二つの桶を取り出し、片方を左手に提げ、もう片方を右肩に担いだ。
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