96. 執務室の地図
目が合ってしまう。
また……。
ミルは体を強張らせた。
使用人達を含めて、ブワイエ家の人達は必要な用事を言い付ける時以外、いつも奴隷がそこにいないかのように振る舞う。それはブワイエ家特有のことではないようで、この館を訪れる客人は皆同じようにした。
なのに婚約者の家から来ている使用人達の中に一人、頻繁に目の合う女性がいるのだ。
さっと視線を走らせるように見られるだけなのだが、ミルはその女性と目が合うと、なぜか恐怖を感じた。
背筋が寒くなるような冷たい瞳―――――――――――――
特に何かを言われたりされたりするわけではないのだが、ミルはもう、その女性に出くわしたくないと思うようになっている。
何も起きていないのに、「避けたい」と思うくらいに何か異様な恐怖を感じるのだ。
その女の近くに寄るのが恐ろしくて、ミルはその場を動かなかった。
ずっと向こうから一瞬だけミルを見た女は、すぐに何ごともなかったかのように歩き出し、同僚達と共に廊下を左へと折れて行った。
深い安堵の息をつく。
冷たい汗をかいている自分に、ミルは自分で驚いていた。
じゃらっ……。
少しおいて、ミルはようやく足を踏み出した。
ミルが歩き出すと金属の縄は少女の足が不自由であることを大声で宣伝するかのように、強弱の幅が大きい音を残酷に立てた。
ミルが館の中を移動する時、以前は必ず誰かしらが同行していた。
今も一人にされることは滅多にないが、見張りも段々といい加減になっていて、特に灰の回収作業の時は、ミルは、目を離されることが増えていた。
奴隷の少女に物を盗んだり壊したりする様子がなかったので、皆安心しきっているのだろう。
ここから逃げるために役立つ物ならば、この館から物を盗ることを、本当は、ミルだって躊躇おうとは思わない。
でも何かを盗もうにも少女奴隷にはそれを隠し持っておく場所も、金に換える場所もなかったのだ。
一階の北端に近い部屋の扉を開ける頃には、不気味な女中の目に晒されたミルの恐怖心は、ようやく少し和らいでいた。
暖炉や竈の灰は、充分に冷えていなければ回収出来ない。
暖炉が安全な温度にまで冷えているかはブワイエ一家がいつどの部屋を使ったかによるので、大抵は部屋に行ってみるまで分からなかった。
本当は暖炉の灰は一週間に一回くらいのペースで掻き出せればこと足りるのだが、だから毎日のように部屋を廻って、灰が冷えていればその時に、こまめに掃除しておくことになっていた。
この部屋の暖炉は入り口を入って左にあって、左右をミルの背丈より少し高いくらいの書棚に挟まれている。書棚に置かれている本がどれも随分分厚くて、何か重々しい雰囲気の部屋だった。
扉を閉めてすぐに、見慣れない物がミルの目に留まった。
それほど広くないこの部屋では、大きな窓を背にした重厚な書斎机が強い存在感を放っている。その卓上に、そこからこぼれ落ちそうな程に大きな紙が広げられていた。
書斎机の上には銀製の小さな馬があしらわれた紙押さえや、真鍮細工に嵌め込まれた繊細なガラス細工のインク壺などがあるのだが、そんな高級そうな事務用品も、その紙は全て覆いつくしていた。
こんなに大きな紙は、特注でもなければなかなか作られないだろう。
物珍しさもあって、ミルは暖炉の前を通り過ぎ、机の方へと近付いた。
そしてその瞳に映った物にどきりとした。
地図―――――――――――――――――――――――――
ナギから「地図を探している」とか聞かされたことはないのだが、自分達が今いる場所はどこなのだろうとは、ここで鎖に繋がれた時からミルも何度も考えていた。
その地図には巨大なヴァルーダ王国と、ヴァルーダと国境を接する国々が描き込まれていた。
中央に大きく描かれたヴァルーダを見つめ、それからミルの視線は懐かしい故郷へと移った。
祖国ヤナ――――――――――――――――――――――――。
その西端の自分の故郷――――――――――――――――――。
平面的な線の集まりに過ぎないのに、それを見た時そこに家族の姿が浮かび上がって、ミルの目に涙が込み上げ掛けた。
思わず嗚咽を上げそうになった口元を抑えてから心を落ち着けて、ミルはもう一度ヴァルーダに目を戻した。
地図があっても、そこに書かれたヴァルーダ文字はミルには読めない。
それでも何か手掛かりが得られないかと、ミルの視線は巨大な紙面の上を彷徨った。
他国だが、大国ヴァルーダの王都の場所くらいはミルも知っている。
南方のやや東寄りの、海に近い辺りだ。
探そうとしなくてもその場所はすぐに見つけられた。
その場所を中心に、網の目のように多くの道が伸びている。辺境に近付くほど目が広くなって行く網は、その場所では目が詰まったようになっていて、ヴァルーダの都は一目で分かる程に目立っていた。
目の大きさに違いはあれど王国の道は国の隅々にまで張り巡らされていて、図体だけではないヴァルーダの大きさを、思い知らされる気がした。
地図に描けるような主要な街道だけでここまで網羅している―――――――ー。
ヴァルーダに怯え暮らして来た周辺国の民として、少女はその地図にうすら寒さを覚えた。
だが王都を見つけるより、故郷を見るより先に目に入ったものがある。
森や山を緑で、平地を薄茶色で塗り分けている様子のその地図では、道はやや濃い茶色で描き込まれていた。その道の一本が、朱で塗られているのだ。
朱い線は、王都から北へと伸びていた。
その線上に位置する、都市の名前と思われる記載が幾つか、やはり朱色の丸で囲まれている。
そして八つの丸を経た先で、朱色の線は途切れていた。
この線はなんだろう。
――――――――――――ブワイエ領から王都への道順ではないのか。
じゃあこの線が途切れた辺りが――――――――――――――?
線の北端はブワイエ領かもしれない。
だがそう判断するには情報が足りなかった。
何か他に手掛かりは。
穴の開く程、ミルはその地図を見つめた。
奴隷狩りに遭ってからここに売られてしまうまでの間に、そう言えばかなり大きな川を渡ったとミルは思い出した。
奴隷商人の幌馬車の出入り口にはカーテンのように左右に開く幕が提げられていたが、馬車の中に乗っていた見張りの男が何度かその幕を開けて騎馬の仲間と会話したので、外の景色が目に入ったのだ。
水音がする中で橋の欄干が延々と続いていて、こんなに大きな橋が造れるのかと、驚きを覚えた。
まだ怪我をする前で、あの時はミルの手足は普通に動いていたし、消えない傷痕も、まだ体に刻まれていなかった。
ヴァルーダのように巨大な国でも、あれほど大きな川は幾つもないだろうと思う。
そう思い到って、故郷と朱色の線の終着点の間をミルは探した。
あった―――――――――――――――――――――――
青色に塗られた、巨大な川。
自分とナギは、この川を渡ってここに連れて来られたのだろうか。
朱色の線が途切れる場所は、祖国の東南に位置していた。
何かもっと、確証を得る術はないだろうか。
震えながら、ミルは地図を更に見つめた。
その川は大国を縦断してヴァルーダの王都へと至り、海へと注いでいた。
少しして意外なことが分かった。
ブワイエ領かもしれない辺りからも南へ向かって細い川が伸びていて、それが下流でその大河に合流しているのだ。
祖国からは遠ざかってしまうけれど、ならこの川に沿って歩けば、
あの大きな川に出る――――――――――――?
祖国と反対方向に進むことが最善の方法だとは思えないが、少なくとも迷う心配をせずに済む、道標ではあった。
なんとかここがブワイエ領だとはっきりさせたい。
鼓動が速くなるのを感じながら少女がなおも地図に見入ったその時。
ばんっ、と激しい音がして、乱暴に部屋の扉が開いた。
体じゅうをびくりと跳ねさせて、ミルは扉を振り返った。
この家の長男が、目を怒らせてそこに立っていた。
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