91. 「帰宅」
扉を開けると、柵の向こうの薄暗がりの中で牛達が静かに蠢いていた。
少女の姿はない。
「ラスタ――――――――――――――――――――?」
ぎしぎしと鳴る戸を閉めながら呼び掛けて、ナギは少しだけ身構えた。
まさかとは思うが――――――――――――――――まさかだった。
ぽんっ。
「ナギ!!」
「うわっ!!」
微かな破裂音と共にナギの目の高さにサンダルを履いた小さな足が現れて、少女は上空から降って来た。
ラスタは、今度は浮いてくれていなかった。
少年の両腕に小さな少女の重みが、加速分を加えてどさりと掛かる。
ラスタが「消える力」を手に入れてから、ナギは頻繁にこれをやられる。
でも掌サイズの竜と、人間の女の子の目方は桁違いだった。
竜人少女はナギの首に抱き付くと、その腕の中で両足を嬉しそうにばたばたさせた。
「待ってたぞ‼」
幼い声が少年の耳元で元気に響く。
心臓が止まりそうな「帰宅の儀式」を終えて、ナギは小さく息をついた。
昨日まで、ここに帰って来るナギを待っていたのは、掌にすっぽり入るサイズの、小さな竜だった。
だけどこれはラスタだ――――――――――――――――――。
何から何まで違うけど、何から何まで、ラスタだ。
「ただいま。」
そう応えて微笑むと、少年は竜人の少女を、しっかりと抱き締め返した。
ちょっとだけどきどきしていた。
人間の姿をして、人間の言葉が喋れるラスタに迎えられたのは初めてだった。
「家族」という言葉が、少年の胸をよぎった。
「『服』を変えたの?」
金色の髪に包まれているかのような少女を片腕に抱き、向き合ったラスタに目を丸くしながらナギは尋ねた。先刻ラスタが空中に現れた瞬間に気付いていたが、少女の服が今朝と違っていたのだ。
だが少女にとっては思わぬ質問だったのかもしれない。
ラスタは少し戸惑う表情をして、それから不安そうにした。
「前の色の方がよかったか?」
光る水面のようなラスタの「服」は今度は赤紫だった。下は巻きスカートではなくズボンになっていて、ドレープを持つややたっぷりとした布は、足首で細く締まっていた。上は下と同じ色の「布」で胸の周りをぐるりと巻いただけなのは朝と同じだ。
今朝とは少し違うけれど、ラスタのその姿はやっぱり、遠いどこかの国のお姫様みたいだった。
余程変な服でない限り、ラスタは多分、何を着ても綺麗だろう。
ごく素直にそう思い、実に真面目な面持ちで、少年は小さな少女に向き合った。
「どっちもすっごく似合ってる。」
「うむ、そうか‼」
少女の顔がぱあっと輝く。
柵の向こうで牛が鳴いた。
今この小屋の中には、ひどく素直な生き物しかいないようだった。
それにしても、と、ナギは腕の中の輝くような少女を見つめた。
竜人の体重が不思議だった。
成長ごとに重くなるのはまだなんとなく納得出来なくもないのだが、竜から人、人から竜と変わる度に増えたり減ったりする重量はなんなんだ、と思う。
ラスタの重さはいつも見た目から予想するそのままで、今は小さな女の子そのものだった。
人間の重みがある幼い少女を、ナギはしっかりと抱き直した。
◇
16歳のナギの背は、もう大人と変わらない。
休みなく過酷な力仕事を強いられてきたせいで、少年の細身の身体には、全身、しなやかな筋肉が付いている。
強く、逞しくなった少年の身体は、一度もふらつくことなく少女を梯子の上まで運び上げた。
今日までずっと、ナギは自分が成長するのを待っていた。
脱出計画がこれまで具体性を帯びなかったのは、「ラスタがいなかったから」というだけが理由ではない。
子供の力と体力で逃げ切るのは無理だと考えて、少年は四年間、静かに耐えていたのだ。
ヴァルーダ人と髪の色と瞳の色が違うヤナ人は、この国では一目で外国人だと分かってしまう。
だから故郷を目指すには人里を避けて、自力で食料を確保しながら山野を踏破しなければならない。
この国の人間や危険な獣と出遭えば、戦わなければならないかもしれない。
館から飛び出すことまでは出来ても、子供の自分がヤナに辿り着くことは出来ないと思った。
だが今ならナギは足の鎖さえなければ、ジェイコブと殴り合っても勝てるかもしれなかった。
それでもヤナに帰り着くのは簡単ではないだろう。
ラスタを先に「部屋」に降ろしてから、ナギは自分も梯子を上り切った。
と、「部屋」に上がった少年の足元をラスタの小さな指が差す。
かしゃん。
鉄の枷が音を立てて解けた。
「―――――――――――――――――――」
「もう外してもいいだろう。」
光に包まれているかのような少女が笑う。
四年間で初めて、今日は足枷を着けずに寝られる。
重さや冷たさに苦しまずに、眠ることが出来る。
「ありがとう―――――――――――――」
辛うじて堪えたが、ラスタにお礼の言葉を言いながら、ナギはこの時また泣きそうになった。
闇と寒さが少しずつ強さを増している。ナギは早速藁の中に足を入れた。
足が軽い。
鎖が藁に引っ掛かったりしないだけで、立ち上がって飛び跳ねたいと思う程に少年は幸福だった。
「氷の中でも平気だ」と言う竜人は、藁布団の横でちょこんと座って少年と向き合っている。
もう今日は、ナギはお祝いだけして一日を終えたくなった。
でもその前に、少女に訊かなければいけないことがある。
期待と緊張ではちきれそうになる。無理にも冷静に話そうとしたら、顔の筋肉が強張った。
ゆっくりとぎこちなく、ナギは竜人少女に尋ねた。
「――――――――――――ラスタ。………書庫の本は、見られた?」
だがラスタは難しい表情をして、すぐには返事をしなかった。
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