90. 少年の願い
ぞくり。
薄茶色の女の瞳がこちらをちらりと見た時、体のどこかで危険を感じて、ナギは思わず足を止めていた。
忙しい筈のこの時間に、ジェイコブといつもの女中が料理を中断し、黒い服の女と竈の前で向き合っている。
ナギの監視役は台所の入り口まで奴隷の少年を送り返すとそのまま立ち去るのが常だったが、他家の人間が台所にいることに驚いたのか、ナギの後ろから中を覗き込んで、やはり足を止めていた。
朝ミルに話し掛けたことでジェイコブに怒鳴られ、話をするような雰囲気ではなくなったため、客人の不審な振る舞いについて、ナギは台所には告げていなかった。
その後朝食を食べ、一日書庫とラスタのことを気にしながら畑と家畜の世話をして、正直なことを言えば、ナギは実はこの瞬間まで女のことを忘れていた。
「どういうことでしょう?ご一家の食事をご覧になりたいというのは。」
ブワイエ家の年輩の女中が―――――――この女中はタバサと言うらしいのだが、ナギは彼女の名前を一度もちゃんと聞かされたことがない。数回聞き齧った名前が間違いでなかったと知れたのは、ミルが教えてくれたからだ―――――――黒い女中服の他家の女に尋ねる声がした。その声に、微かな反感が混じっている。
何の感情も見せない表情で、黒い服の女は応えた。
「アメルダ様は田舎の食事に慣れていらっしゃいません。見せて頂いて、直して欲しい所があれば申し上げます。」
台所の空気が、さっと変わる。
ナギは息を飲み、その様子を眺めた。
初めて聞く女の声はやや掠れていて、何かぞっとする冷たさを纏っていた。
歯を剥いたジェイコブの顔が朱に染まり、タバサが頬を引きつらせている。少年奴隷の見張りでここまで来た使用人の男も、表情を凍り付かせた。
女の言葉には端々に、ブワイエ家を見下す意識が滲んでいた。
「明日は家畜も見させて下さい。牛と鶏がいると伺っていますが、肉と卵は十分な用意がありますか。アメルダ様が不自由を感じられるようでは困ります。」
冷気を感じさせる声で喋りながら、女の瞳が再びナギをちらりと向いた。
その瞳に、ナギはもう一度ぞっとした。
「そこで何してやがる!!」
女の目線を追ってナギに辿り着いた料理人が激昂する。
ハンネスの婚約者の家から来ている人間に向かってキレなかったのは、ジェイコブにしてはかなり自制したと言えるだろう。
ブワイエ家の人間と険悪になるのは婚約者にとっても不幸だと思うが、嫌おうが好こうが、婚約者はいずれこの家の当主夫人になる人間だった。
少年は無言で一礼すると、勝手口から出るために台所を横切った。
竈の前で向かい合う二つの家の使用人達は、少年奴隷が外へと出て行くのを息を潜めるようにして見つめていた。
聞いてはまずいと判断したのか、ナギの沐浴を監視していた男も、足音を忍ばせながら台所から立ち去った。
春に輿入れして来ると言うハンネスの婚約者は、想像していた以上に館の雰囲気を悪くするかもしれない。
急速に光を失っていく冬空の下で、ナギは胸に泡立つような不快感を覚えていた。
瞳も声も、冷気を放っているかのような黒い服の女の姿を思い返しながら、ナギは歩き出した。
「家畜を見たい」と言っていた。
今朝のあれは、では、牛を見に来たのか。
なら館の人間に朝の出来事を話しても、大して問題にはされないだろう。
だがなぜかそうは思えない。
ナギの胸の騒めきは消えなかった。
早くここから、ミルだけでも逃がしたい。
鉄の重りを引き摺り、ナギは木戸を開けた。
早くラスタに会いたい。
牛小屋が見えて、気持ちが急く。
じゃらっ……じゃらっ……
鎖が、心まで縛り付けるような音を立てる。
今朝小さな少女がこの枷を解いてくれた時のことを思い出し、ナギは胸が痛くなった。
本当は朝、もう一つやりたかったことがあった。
どんなに気持ちが急いても、足を縛られた少年の歩みは遅い。
走りたい――――――――――――――――――――――――――
この鎖から自由になって。
全速力で、息が切れるまで。
その日が近付いていることを願いながら、ナギは自分と竜人が暮らす小屋の扉を開けた。
一週間ぶりに何とか更新です!




