87. 記憶と未来
竜人の少女は、空中でぺたんと座った。
少女の頭の位置は一端ナギの胸の辺りまで下がったが、すぐにまた浮き上がって、目線が少年と同じになるくらいの高さで止まった。
ラスタの長い髪はそこに何かがあるかのように、逆さに置いた花を思わせる形で、少女が膝を着いた辺りから広がった。
普通には起こり得ない動きが予測がつかなくて、驚きと高揚感で、ナギの心臓が急き立つように打つ。
小さな少女は幼い姿には似合わない、至極真面目な表情をした。
「獣人が過ごしたことのある国の言葉はほとんど分かる。ヴァルーダに住んだ獣人は多いみたいで、記憶が濃いな。方言もイケるぞ。」
やはり「獣人の記憶」の力だったのだ――――――――――――ラスタがこれだけ巧みにヤナ語を話すのは。
逸る気持ちを堪え、抑揚の乏しい声で少年は尋ねた。
「―――――――――――――――文字も読める?」
「ヴァルーダの文字は、古い文字までイケる。」
心臓がどきどきする。息が苦しい。
ほとんど唸るようにして、ナギは言葉を絞り出した。
「……………書庫。」
「書庫?」
「地図があったんだ―――――――――――――――――――。」
たった一人で数千冊の本の整理をさせられた時。
ナギは偶然、ヴァルーダの地図が描かれた本を見つけていた。
多分ヴァルーダの歴史とか地理とかが書かれた本だったのだろうと思う。
最初にヴァルーダ全土の地図が見開きで描かれていて、それから各地の地図が数ページおきに示されていた。
でもヴァルーダの文字が分からないナギには、記されている地名が読めなかった――――――――――――――――。
それきりハンネスに嫌がらせをされた時まで書庫に入ったことはなく、二度目に書庫に入ったあの時は倒れる寸前で、地図を見るどころではなかった。
ナギの話を聴き終えると、竜人の少女は瞳を輝かせて笑った。
「そうか、ならその本を見て来よう。」
「………………ありがとう。」
「大きくなったからな!もう本も持てるぞ!」
嬉しげに言われて、ナギは思わず笑ってしまった。
確かに小さな竜の体のままだったら、本を持つことも出来なかっただろう。
こんなに急に事態が動き出しているのも、ラスタが人間の姿になって、話せるようになってくれたお蔭だ。
「後で早速行って来よう。」
「ありがとう、ラスタ。」
人が出入りしている様子のほとんどないあの書庫なら、忍び込んでも見つかる恐れは少ない。万が一見つかったとしても、ラスタは姿を「消せる」。
牛がしきりに鳴く。
いい加減、彼らの世話をしなければ――――――――――――大急ぎで。
でもその前に、手洗いに行きたい。
「―――――――――――――――そうだラスタ。」
そう考えて、少年ははっとした。
「――――――――――――――もう僕のトイレに来るのやめて。」
黒竜がナギの胸元に入って移動していた時は連れて行かざるを得なかったが、ラスタは未だに雑穀の納屋やナギのトイレに突然現れては、ナギを驚かせることがあったのだ。
その言葉に、小さな少女はむくれた。
「だって朝しか遊べないじゃないか。」
「人間はトイレについて来るのは赤ちゃんだけだよ!」
「獣人の記憶」って、ジャンルに偏りがあるんじゃないのか。
ラスタが言っていた「生きていくのに役立つ記憶」というのは、どの辺りの分野をカバーしているのだろうと、少年はその「記憶」に少しく疑問を持った。
「もう絶対にやめて!」
一杯に頬を膨らませている少女に、ナギは念押しして言った。
そしてもう一つ、ずっと知りたかった重大なことがあった。
「ラスタ―――――――――――――――。ラスタのトイレって、どこなの?」
夏に新しい干し草が運び入れられた時内心ひやひやしていたのだが、結局、ラスタのトイレの跡が納屋で見つかることはなかった。
宙から少年を見つめ返し、少女は答えた。
「してない。」




