85. 空を飛ぶ
今ラスタに向き合うことより大事なことは、そうは存在しないだろう。
訪問客の不審な行動はナギの中にざらりとした不快感と警戒心を残したが、僅かな時間を振り分けてそれを解消しようと思う程、黒い服の女に大きな関心は持てなかった。
ナギは両手の親指を黒竜の前脚の下に差し入れると、小さな子供を抱き上げるように胸の前に竜を掲げた。
目覚めた時は、赤ちゃん猫のサイズだったのに。竜は今、大人の猫の大きさだった。
黒竜の成長を喜びながら、どこかで少しだけ、もう手には載らないな、とナギは寂しくなった。
「大きくなったんだ。」
少年が笑いかけると、青い瞳は得意げだった。
黒竜は後ろ足で立っていたから掌に載らなくはないのだろうが、重さも大きさも、最早「掌サイズ」とは言い難い。
「好きな時に竜になれるの?」
ちょっと気になっていたことを少年が尋ねると、手の中で竜がこっくりと頷く。竜の姿でいる時は、やっぱり喋れないらしい。
と。
ラスタはナギの手から一度消え、今度は少女の姿になって、再び少年の前に現れた。
「あのヴァルーダ人は何をしに来たんだ?」
「分からない。」
竜人の少女にそう問われ、ナギも眉をひそめた。
ただ、今は限られた時間を、分かりようもないことに費やしたくなかった。
牛の世話をこれ以上後倒しには出来ない。
これまでもずっと、ナギとラスタのやり取りの大半は牛の世話をしながらだった。
後の話は、今日ももう、そうするしかない。
ナギはそっと体を起こした。
鎖が解かれた感覚を確かめるように、足を踏みしめて。
やりたいことがある―――――――――――――――――――――――。
こんなことがあると、枷を外しているのは危険かもしれないとは思うけれど。
それはまたよく考えることとして、今どうしてもしたいことがある。
ナギは「部屋」の隅から木靴を取り上げると、梯子の前に立ってそれを履いた。
「掃除を始めるのか?」
「うん。」
笑顔で少女の問いに頷くと、少年は地面を向いた。
少し高い。
構わない。
僅かに腰を屈めると、少年は梯子六段分の高さから、一気に地面に飛び降りた。
高い所から降りる時、バランスはどうやって取ったらよかったんだろう。
思い出せなくて、少しよろめく。
衝撃が足裏から膝へ、膝から腿へ、そして頭へと伝わる。
四年振りの感覚。
いきなり無謀だったかもしれない。でも。
空を飛んだみたいだ。
「痛くないのか?」
「部屋」からラスタが尋ねてくる。
「ちょっと痛い。」
振り向いて、ナギは笑った。
飛びたかった。ずっと。
今自分がどれだけ幸福か、どう言えばラスタに伝えることが出来るだろう。
もう一度ラスタにお礼を言いたい―――――――――――――それから、ラスタの「記憶」のことをもっと知りたい。
そこまで考えた時、ナギはふとあることに思い至った。
もしかして。




