77. 竜人少女(2)
これは?
一瞬前までなかった物だ。それだけではなくて、まるで光を織り込んだかのようなこんなに美しい布を、ナギはかつて見たことがない。
少年に助け起こされて床の上に座った少女は、大きな服の中でまだじたばたともがいていた。
服を一人で着られない年齢の幼児のようなその不器用さにナギはちょっと驚いたが、よく考えたら、ラスタが服を着たのは今が生まれて初めてだった。
茫然として固まっているナギの前で、ラスタの体が下半分だけ少年の服から脱出する。
咄嗟にナギは、服を脱がせてやった方がいいのか、もう一度着せた方がいいのか迷った。でもラスタの足の上には、眩いくらいに綺麗な青紫の布が広がっていた。
水面を思わせる光沢と滑らかさを持つ布が、衣擦れの音を立てて揺れる。
息を詰め、ナギはラスタに着せた自分の服を掴んだ。
服を引っ張り上げると、心地よい程に滑らかな音を立てながら、金色の髪と青紫の布が、波紋が広がるように床を覆った。
割と派手に転んでいた少女は、頬を紅潮させてむうっとむくれていた。
それでも天から降りて来たかのような少女のその美しさに、ナギは息を飲んだ。
青い瞳を縁取る睫毛が、瞬きする度に震える程に長い。彫刻のように筋が通った綺麗な鼻と、形のいい薄紅の小さな口。くしゃくしゃに乱れた金髪がその足を過ぎて床に届いていたが、やっぱり光を纏っているようだと思う。
そしてヤナの服ともヴァルーダの服とも違う、ナギが初めて見る服―――――
服――――――――――――どうやって―――――――――――――⁈
「ナギが寒いだろう。」
まだむくれ顔をしたまま、ラスタはナギの持つ服を押し返した。
ヤナ語だ――――――――――――――――。
ヤナで生まれ育ったかのように、完璧な発音だった。
心の中にこれ以上驚ける余地が残っていなくて、少年はただひたすら口を開いていた。ラスタは気にしてくれたが驚きが他の感覚を上回り、ナギはこの時、寒さすら感じなくなっていた。
波打つような青紫の巻きスカート。布の合わせ目から、ふくらはぎまでの編み上げのサンダルが覗いていた。上はスカートと同じ布で、胸の周りをぐるりと巻いただけだ。その首の側に金の縁取りがある以外目立つ装飾はなかったが、ドレープと光沢だけで圧倒される程の優美さで、見知らぬ服を着た竜人少女は、ナギの知らない、遠いどこかの国のお姫様みたいだった。
「服を作る力」――――――――――――――――――?
そんな力が、あるものだろうか。
「超常の力」というには、ちょっと用途が狭すぎるような。
今自分が見ていることを理解しようとして、ナギは混乱した。
「無から有を生む力」とか………?
そんな力があったら、この世の理が引っ繰り返ってしまいそうだとも思う。
「これならどうだ?」
ようやく機嫌を直した様子の金髪の少女が、立ち上がってまた胸を張った。
ナギはまだ絶句していたが、少女に不安げに「他の色がいいか?」と訊かれるに至って、やっと言葉を絞り出した。
「……………服。」
どうやって。
「服じゃないぞ。」
「えっ……?」
服じゃない?
ラスタのその言葉を、どう解釈していいのか分からなかった。
続いた少女の言葉は少年の混乱に、大量の動揺を注ぎ足した。
「肌の一部を変形させて、服のように見せてるだけだ。」
「肌?!」
少女を見つめて、少年が絶句する。
肌?!これが?!
思わず手を伸ばして確かめようとして、直前でナギは思い留まった。
なんというか道義的に良くない気がする。
代わりにスカートの裾の辺りを穴の開く程見つめてみたが、到底信じられなかった。
とんでもなく高価そうだという意味では普通ではなかったが、どう見たって普通の服だ。
この服が、肌?
あり得るんだろうか。
でもそれが本当なら、これは裸と変わりないのでは?
服を着ていないことが問題なのか。
服を着ていないように見えることが問題なのか。
何か変な問題に突き当たって、ナギは混乱した。
「ヤナの服みたいにも出来るぞ。」
ラスタがリクエストを訊いてくる。
うん、形が自由になるのなら、もっとあったかそうな服に、って、
裸だったら同じことじゃないか。
右手で額を抑える。数秒を置いて、少年は呻くように言った。
「ラスタ………これ………裸と変わりないんじゃないかな…………?」
するとラスタは、ちょっと困ったような表情をした。
「…………でも人間の服だと、消える時に困るぞ。」
「――――――――――――――――――――――」
少女の姿が消えて、残された服がはらりと地面に落ちる様子が少年の脳裏に浮かんだ。
「…………姿を現した時も困るし。」
「―――――――――――――――」
一糸纏わぬ姿で宙から現れた少女がもたもたと服を着だす様子が、以下略。
…………つまりこれが最善…………?いや、でも。
「だけどそれじゃ寒いでしょ?」
懊悩を抱えながら少年がそう言うと、少女はまた胸を張った。
「心配ない。竜は暑い所でも寒い所でも平気だ。わたしは氷の中でも平気だ。」
「氷の……⁈」
「火の中でも平気だぞ。」
「……………」
小さな少女の青い瞳が、そこで躊躇うようにナギを見た。
「……………それに今までも何も着てなかったぞ?」
「……………」
心の中で色んな思いが往復し、数秒を経て少年は割り切った。
着ていると思うことにしよう。
目覚めた鳥の声が聞こえる。
辺りはもう、すっかり明るかった。
歴史の教科書に刻まれるべきこの凄い日に、自分は何をすればいいのだろう。
――――――――――――――ああ、そうだ。
青い瞳の少女を見つめた。
目の前に立つ竜人少女は、座っている少年と目の高さが同じだった。
「――――――――――――――おめでとう。」
小さく微笑うと、少年はそう言った。
満面の笑みで、少女は少年に飛び付いた。
小さな腕が、少年の首にかじり付く。
一年が経って人間になった少女を、少年は抱き止めた。
ナギの手に触れる布は、やっぱり本物の布にしか思えなかった。
人間が生み出した布に、この光沢と滑らかさを再現出来る物はないのかもしれないが。




