54. ミルの行き先(3)
石積みが剥き出しの部屋。
滑らかさのない壁面が、揺らめく小さな火の中で、不気味に踊る陰影を生み出していた。
化粧のない剥き出しの壁と床は、ミルの前に唐突に現れた。
小さな部屋―――――――――――――――いや、部屋ではない。
奥へも左右へも、ほんの数歩分しかない空間。
その左奥に、ぱっくりと闇が床に口を開いている。
橙色の明かりに、その口の中を降りていく石段が浮かび上がった。
左下へと降りて行くその口からは陰惨な気配が立ち昇っていて、ミルは足が震えた。
その時老女が照らす火の中で、何かが微かにきらめいた。
見ると、奥と右の壁面に階段を見下ろすように燭台があり、それが鈍く光っている。
火は灯されていなかった。
二基の燭台には使いさしのろうそくが二本ずつ挿さっているが、最後に灯されたのがいつなのかは分からない。
その燭台に、老女が自分のろうそく台を近付ける。
燭台に火が入り、小さな空間がオレンジ色に染まった。
だがなぜなのだろう。
恐ろしさが消えない。
右の壁面の上の方に、オレンジに染まらない部分があると気が付いて、ミルはそこを見上げた。
窓だ。
高い位置に、小さな窓がある。
小さな窓は、その外の薄闇を四角く切り取っていた。
天井が無駄に高い。
他に何もない。階段以外、そこには進む先がなかった。
ここを降りるの?
強張るミルを老婆が振り返り、「階段を降りろ」と手振りで示す。
いや。
後退る足に、鎖が絡んだ。
ろうそく台を持つ手で、老婆が何度も階段を指し示したが、ミルはそこを動くことが出来なかった。
遂に老婆が、骨に皮を吊るしたかのような皺だらけの乾いた手でミルの手首を掴んだ。
「……!」
凄い力だ。
でもこの階段を降りたくない。
手を振り払って、逃げたい。
だけどどこにも逃げ場なんてない。この館の外は、見知らぬ異国の地だ。
老婆に手を引かれ、少女は泣きそうな表情をして、とうとう階段へと進んだ。
がちゃんっ。
鉄の重りが石とぶつかり合い、地の底へ落ちて行くような場所に、派手な音を立てる。
オレンジ色の壁と階段に、老女とミルの影が揺れる。
足の鎖が立てる音以外、なんの音もしなかった。
数段石段を降りると底が見えた。その先は、暗かった。
階段の一番下まで辿り着き、そこで目にした景色はミルを打ちのめした。
鉄格子の扉。
その奥に見える通路と、その通路に沿って並ぶ格子の嵌められた部屋。
牢屋だった。
ミルから手を離した老女が、扉を開ける。
ぎいいぃぃぃっ………
扉が錆びた悲鳴を上げる。
振り返った老婆が、「入れ」と無言で少女を促す。
逃げよう―――――――――――――どこへ?
走ろう――――――――――――――走れない。
ミルは震えていた。
格子の向こうには、明かりも人の気配もない。
結局、ミルはよろめくようにして扉の中へと入った。
扉の中には奥に伸びていく通路があった。格子の嵌められた部屋が左手に並んでいる。
だが先の方は暗くて、部屋が幾つあるのかは分からなかった。
老婆は黙って、一番手前の部屋の扉を開けた。
先刻の扉と同じで、格子の一部がドア状に開閉出来る仕組みになっている。
また無言で老女に促される。
階段の上の明かりはここにはほとんど届いておらず、地下の世界を、二人が持つろうそくの小さな火が不気味に朱く照らしていた。
泣き出しそうなミルの手を、再び老女が掴んだ。
押し込められるようにしてミルがそこに入ると、扉はすぐに閉められた。
かしゃん、という音にはっとして、少女が振り返る。
老女は床にろうそく台を置き、何かをしようとしていた。
かちゃかちゃという小さな金属音がして、ミルは自分が閉じ込められようとしていることを察した。
「いや……!!閉めないで!!」
ミルは格子にしがみつき、悲鳴のような声で訴えた。ヤナ語だが、この訴えが通じないとは思えない。
扉は僅かに動いたが、押し戻された。
「いや!!開けて!!お願い、出して!!」
必死に叫ぶミルを、老婆は格子越しにちらりと見つめ返した。だが老婆は声一つすら発することなく微かに首を振ると、ろうそく台を拾い上げ、踵を返した。
「行かないで!!お願い、出して!!」
ミルの声など聞こえないかのように、老女が入り口の格子扉を出て行く。
「出して!!誰か!!」
誰か!!助けて!!
お母さん!!
ナギ!!
老女中のろうそくが遠ざかって行く。
ミルはパニックを起こしかけていた。
少しすると、階上が真っ暗になった。
階段を戻って行った老女が、燭台の火を消したらしい。
「…………!!」
口を開けて絶叫しそうになって、ミルは耐えた。
落ち着いて。
微かに残る理性が、懸命に自分をなだめる。
鉄格子を叩いたりしたら、自分の手が砕けてしまう。
深く息を吸い、吐いた。
少女は、深呼吸を繰り返した。
やがて少しだけ気持ちが落ち着くと、ミルは振り返った。
左の壁に沿って、ベッドがある。
右側に、木の座面に小さな穴の開いた、石造りの椅子のような物。
少し考えて、トイレだと分かった。
今手に持っているこの小さなろうそくは、朝まではもたない。
これが消えれば、ここは完全に真っ暗だ。
怖い――――――――――――――ここはきっと、朝が来ても分からない。
落ち着いて。
また我を失いそうになる自分をなだめる。
朝が来ればちゃんと出られる。
彼らは自分を働かせたいのだから。
小さな竜と、少年の姿が胸に甦った。
ナギ――――――――――――――――――
自分を助け、守ろうとしてくれている少年。脳裏に焼き付いているかのように、あの時の彼の真剣な姿が何度も頭の中で再現される。声も表情も、微かな空気の揺れまでも。
ナギは今も一人で危険を背負ってくれている。
小さな竜を自分に会わせてくれた少年。
たった一人で、ナギは三年を耐えた。
泣いちゃ駄目。
心配をかけても駄目。
じゃらっ……
ゆっくりと、ミルはベッドに歩み寄った。
そしてベッドに腰掛け、靴を脱ぐ。
髪を乾かそう。
それから、火を消そう。
少女は小さなろうそくを見つめた。
◇
翌日。
真っ暗な中で、ミルは目が覚めた。
まだ夜なのか、それとももう朝なのか。
分からない。
寒い。
視線を動かしてみるが、闇しかない。
―――――――――――――――――あ……
微かに、闇が薄い所がある。
目を凝らす。
「………!」
体を起こし、ベッドの脇に置いた靴を手探りで捜す。
靴を履くと、ミルは鉄格子のある筈の方へやはり手探りで歩み寄った。
光。
階段の上の、小さな窓から、光が差しているのだ。
朝が来ている。
体じゅうに、安堵が広がった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
それから二カ月が経った。
ラスタはまだ小さな竜のままだった。
食べる量は少しずつ増えているのに、体は全く大きくならない。
このままだと、ラスタに食事を与えることが難しくなるかもしれない。
雑穀の減りがあまりに早くなると、館の人間に気付かれかねなかった。
ナギの不安は、段々と大きくなっていた。
ある朝目が覚めると、胸の上にラスタがいなかった。
ラスタが先に起きた時は、いつも突ついて起こしてくれるのに。
「―――――――――――ラスタ?」
そっと名を呼びながら、ナギは体を起こした。
ラスタはすぐそこにいた。
床の上で、じっとナギを見つめている。
その体が、淡い光に包まれた。
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