50. 少年と少女と竜(3)
◇ ◇ ◇
ジェイコブには心底から怒りを覚えるが、ミルはバスケットの中の鍵がなんの鍵なのかを知らなかったと言う。楕円形のバスケットが、卵を回収する物であることこそ知ってはいたが、彼女は、鶏小屋の場所すら分かっていなかったそうだった。
ただ身振り手振りで「塀沿いに進んで右に曲がれ」と教えられ、桶とバスケットを持たされて、ミルはジェイコブに勝手口から押し出されたらしい。
必要な知識すら与えていないのに、ようやく回復したミルを冷たい雨の中に出すとか、本気であの男はどうかしていると思う。
ミルが治療期間を、曲がりなりにも家畜小屋でない場所で過ごせたことは、せめてもの慰めだったとは思う。一方で、ブワイエ一家やジェイコブのような人間が常に身近にいるのだと思うと、それがいつも気掛かりだった。
ミルの行き先はいつ決まるんだろう――――――――――――
もう決まっているのかもしれない。
「ナギのいる場所が知りたい」と言われて、ラスタの所へ行く前に、二人は少しだけ、牛小屋にも寄った。
ミルがここに買われた時、ナギは自分の「部屋」のことをすぐにはミルに告げなかった。心がずたずたの筈の時に、それ以上のショックを彼女に与えたくないと思ったからだ。
そして同じ理由で、数日を置いてから、ナギはミルに自分の「部屋」の場所を話した。ミルの「部屋」がどこになるのかはまだ分からないけれど、心の準備が全くないままだと、その時に受けるショックもまた大きいだろうと思う。
青ざめた硬い表情で、ミルは黙って、ナギが三年を過ごした場所を見つめていた。
牛小屋の中には、トイレもない。
ナギがここに買われてから、扉のない掘っ立て小屋がナギ専用のトイレとしてわざわざ造られて、それは牛小屋の外にある。
同じような扱いを受けるとしたら、女の子にはよりきついかもしれない。
家畜小屋か、使用人部屋か。
もし今自分にミルの行き先を選ぶ権利が与えられたとしても、即断出来そうにない。
考える程、ナギの胸はざわついた。
「ラスタ―――――――――――――ラスタ?」
陽が落ちる直前の納屋の中で、今日はなぜか、ラスタが飛び付いてこない。
手を伸ばしたが、黒竜はナギの手の中にも降りて来なかった。
ラスタが自分とは目も合わせずに木の椀の中に座ったことに、ナギは少し驚いた。
ミルのことを覚えてくれたか、訊きたかったのに――――――――
「ラスタ?」
初めて自分以外の人間を見て、動揺してしまったんだろうか。
いつもはナギの胸許に入って帰るのに、木の椀の中に座ったまま、ラスタはナギから目を逸らしていた。
仕方なくナギは左手に桶を提げ、右手でラスタが座る椀を抱くようにして、牛小屋へ帰った。
雨は夕方には止んでいて、空には星が瞬き始めている。
今日はもう、震えそうに冷え込んでいた。
速足で小屋へ戻ると、牛小屋の中は、既に闇に沈みかけていた。
今はこの扉を閉める時には、ほっとする。
「今日も無事に乗り切った」、と思う。
扉のハンドルを回して、ナギが閂を掛けると、ほとんど同時にラスタは素っ気なく椀から舞い上がり、自分だけ先に寝床へ飛び戻った。
「ラスタ?」
本当にどうしたのだろう。
戸惑いながらも「部屋」の下に桶と椀を仕舞って、ナギも梯子を登った。
「部屋」を見ると、ラスタは目を閉じてしまっていた。
床の上で丸くなっていた黒竜の輪郭はまだ辛うじて分かったが、目を閉じられると、うっかり踏んでしまうのではないかと怖くなる程居場所が分かり難い。
「ラスタ?具合でも悪いの?」
尋ねると、ようやくラスタは首を上げ、青く輝く瞳でこちらを見てくれた。
だがそれもほんの一、二秒で、小さな竜は、すぐにふいっと横を向いてしまった。
――――――――――――何か怒ってる?
「痛たっ!」
ナギが手を伸ばしてみたら、突つかれた。
ちょっと様子を見よう。
困惑しつつラスタの横で藁に足を入れると、ナギは再びミルのことを考え始めた。
ミルの今後にナギがこれだけ不安を覚えるのには、理由があった。
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