45. 不安な夜
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
ラスタは未だに人の姿にならなかった。
…………ただの竜、ってことは、あり得るんだろうか?
―――――――――――――――――聞いたこともない。
ぐるぐると干し草の周りを回ったり山を登ったりしているナギの頭に止まって、ラスタはご機嫌だ。
もう闇が来る。
早く牛小屋に戻らないと。
「――――――――――――ラスタ。」
名を呼ぶと、ラスタは差し出されたナギの左手の中にぱたぱたと降りて来た。
竜の赤ちゃんが人間の言葉をどこまで理解出来ているのかも未だに分からなかったが、ラスタが自分の名前をすぐに理解したことは分かっていた。
名付けた次の日から、「ラスタ」と呼ぶと、反応してくれるようになったのだ。
自分が思う以上に、ラスタは言葉が分かっているのかもしれないと考えて、ナギは少し真剣に尋ねた。
「―――――――――――――ラスタのトイレってどこなの?」
それは数ある懸念事項の一つだった。
青い瞳と視線を交わす。
ラスタが左右の翼を広げた。
そして小首を傾げた。
「………………」
このポーズはなんだろう。
少年と、奇妙なポーズの竜は数秒の間見つめ合った。
「―――――――――――帰ろうか。」
溜め息混じりに言うと、小さな竜が手の上でこくこくと頷いた。
「………………」
物凄く言葉を理解しているように思えるのだが。
しかも「頷いて同意を示す」なんて、こんなこといつ覚えたんだろう。
多分、偶然首を振った訳じゃないと思う。
この納屋に新しい干し草が積まれる時期が来た時。謎の生き物の糞が大量に見つかったりしたら、騒ぎになってしまう。
だからなんとか始末しておきたかった。
ラスタのトイレの跡もナギは未だに見つけられていなかったが、不思議なことに、臭いもしなかった。
二人が寝床に帰った時、小屋にはもう、大きな物の輪郭が辛うじてわかる程度の明るさしかなかった。
だが完全な闇に落ちるまでの数分間、ナギは少しだけラスタと遊んだ。
藁の布団の横に座ると、ナギはラスタが数粒だけ残していた雑穀を一粒放り上げた。
光が乏しい中で、小さな粒は宙に投げた途端に行方不明になった。
だが、ひゅん、と風を切る音がして、ラスタの口は空中で何かを掴まえたようだった。
そしてナギの脇にラスタが飛び戻る。
かしかしかし!
竜が雑穀を食べる音がした。
やっぱり、ラスタは夜目が利くらしい。
闇の中に輝く青い瞳は、ナギを見上げて得意げだった。
「凄い!僕にはもう見えないよ。」
ラスタを讃えながら、ナギは胸に微かに痛みを感じていた。
こんなに活発なラスタと、一度もちゃんと遊んでやれたことがない。
一日中一人だけであんな場所に閉じ込めておくことが、いいことの筈がない。
「―――――――――――――ラスタ。」
もう真っ暗になってしまった世界で、ナギは相棒の名を呼んだ。
表情豊かな青い瞳は、楽しそうに少年を見つめ返した。
ごめん、と言うのはやめておいた。
楽しそうなラスタの表情を、曇らせたくなかったから。
その夜もラスタは、ナギの胸の上で丸くなった。
毎晩ひやひやしていたが、どんなに言っても聞かないので、ラスタをここからどかすことは、ナギは諦めてしまっていた。
最初の頃はナギの方が寝付けなくて困ったが、ある夜ふと目を覚ますと、ラスタは横向きになっていたナギの耳の辺りにいた。
なぜか眠っていても、ラスタは自分の体がナギの上に来るように移動できるらしい。
だから今はナギもあまり心配していない。
温かい。
少年は、小さな竜の背中をそっと撫でた。
何も見えなくなってしまった小屋の中で、ナギはミルのことを考えた。
もしちゃんとした医者に診て貰えていたら、ミルの足は治っていたんだろうか。
考えても詮ないことと分かっているが、時折胸をよぎってしまう。
ミルと話が出来る機会は滅多にない。
たまに通訳に呼ばれた時に、暗号のようにヤナ語を織り交ぜて、二人は会話を交わしていた。
ミルの話を繋ぎ合わせると、館でミルの治療をしているのは医者ではなくて、薬草の知識がある女中であるらしい。
ナギも倒れた時や牛乳で腹を下した時に、年老いた女中に薬草を処方されたことがある。ミルを診ている女性も高齢だそうだから、おそらく同じ女中なのだと思う。
貧しい田舎領地には医者もいないのか。
それとも奴隷のために治療費を出すことを惜しんだのだろうか。
その女中はミルの部屋に来る時、薬草を包んだり小分けにしたりするための白い布を、何枚も持って来るそうだった。
あの白い布は、女中がミルの部屋に落として行った物だった。
一枚くらいなくなっていても、それならすぐには分からないかもしれないが、それでも、あんなことをするのは勇気がいった筈だと思う。
その日の内にもう一度会えるかも分からなかったのに、ミルはナギのために自分の食事を隠し置き、人目を盗んで、それを渡してくれたのだ。
まだ気付かれていなかったかもしれないが、「ミルの部屋に落ちていた」という態で、あの布は早々に、ミルから女中に返して貰った。
奴隷の二人が館の物や他人の物を持っているところを見つかると、酷い罰を受けることになるからだ。
暗闇の中で、ナギはここで白い包みを開けた瞬間のことを思った。
あの時自分がどれだけ救われた思いがしたか、ミルは分かっているだろうか。
ミルの勇気と、たった三切れのパンは、あの時、ナギの生命を繋いでくれたのだ。
もう治療が終わるというミルの「部屋」は、一体どこになるのだろう。
ここしばらく、ナギは毎晩のようにミルの行き先を考えて、案じていた。




