40. 少年と竜
干し草の山に、天井や壁の隙間から光が降り注いでいる。
夜を目前にした静かで、仄かな光だ。
ちゃりん……
鎖の音が微かに響いた。
「―――――――――――」
口を開いて名前を呼ぼうとして、名前がなくて呼べなかった。
「―――――――――――戻って来たよ。」
肌寒い大きな納屋の中で、少年は静かに呼び掛けた。
干し草の匂いだけがしている広い空間は、しんとしていた。
竜の姿はなかった。
「ねえ」としか呼ぶことが出来なくて、「ねえ、帰って来たよ」と、少年はもう一度呼び掛けた。
納屋はやはり、静まり返っていた。
逃げてしまったのだろうか。
人間には分からない方法で、納屋を抜け出して。
ナギが足を踏み出すと、鉄の紐が小さく鳴った。
それならそれでいい。
青白い光の中で、少年はそう思った。
こんなことをした自分は、見限られて当然だ。
覚悟はあった。
ただ竜が逃げたと決めつけることもまだ出来なくて、もう二回「ねえ」と呼び掛けながら、少年は草の山に近付いた。
その場所を覗き込むと、雑穀と水が、少量だけ残っていた。
だが竜の姿はなかった。
「ねえ。」
もう一度呼び掛けて、彼は干し草の山を見上げた。
逃げ出したのなら、それでいい。
竜の赤ちゃんが、どこかで元気に生きているのなら。
獣人が人間の望みを叶えなければいけない理由なんて、ない。
でもこの草の山の中のどこかで、冷たくなっているのだとしたら。
自分は竜人の赤ちゃんを、死なせてしまったのかもしれない。
我を忘れたように、ナギは急いで木靴を脱いだ。
手を伸ばし、足を掛け、次々と崩れようとする脆い山を、少年は登ろうとした。
もうすぐに夜が来て、視界は失われる。
込み上げるものを、押し殺した。
泣くな。
自分に泣く資格はない。
草の壁の上をもがいたが、登っては崩れて押し戻される。
でも無事でいるのか、確かめなくちゃ。
草の壁を何度も滑り落ち、それでもナギは登り続けた。
ごめん。こんなところに閉じ込めて。
僕を罰するというのならそれでいい。
逃げたというのなら、それでもいい。
他のなにより、
ただ無事でいてくれればそれでいい………!
―――――――――――――ぱたぱたぱた…………
羽音。
納屋の高い天井を、ナギは見上げた。
ゆっくりと、時の流れがそこだけ違うかのように。
手足から力が抜けた。
干し草の山から、少年は滑り落ちた。
夕暮れの仄白い世界の中で、その小さな姿は山の頂上に止まっていた。
少年を見つめる青い瞳は、光を浴びて宝石のように輝いていた。
無事だった。
滑り落ちた場所に座ったまま、左手を着いて体を支え、少年は山の頂上の小さな竜を見上げた。
小さな小さな竜の瞳は、そこからじっと少年を見降ろしていた。
無事でいてくれた。
ただそう思った。
何かを望もうとは思わない。
赤ちゃん竜を、酷い目に遭わせた。
竜の自分に対する愛情が消えてしまったというのなら、自分が何かを望むことなど出来ない。
獣人の赤ちゃんが育つのに、何かの助けを必要としている訳でないのなら、今納屋の扉を開けて、竜がここから去ったとしてもそれでいい。
無事を確かめられたから、これ以上望むことはない。
力尽きたように、少年は視線を伏せた。
「……っ……ぅ……」
嗚咽が漏れた。
一日飢えに苦しみ、朝と違う姿で帰って来た少年は、するべきことをし尽くして、今ようやく泣いていた。
「……っ……ぅ……っ……」
ぱた。
ぱたぱたぱた……………
羽の音がして、少年は目を上げた。
小さな竜が、自分を目指して羽ばたいていた。
ほとんど無意識に、ナギは両手を伸ばした―――――――――そして竜は、ナギの手の中に降りた。
青い瞳と目が合う。
竜はじっと少年を見つめていた。
言葉もなく、ナギは手の中の竜を見つめ返した。
やがてナギは、両手でそっと竜を包んだ。
竜は、甘えるように自分の頭を少年の手に擦りつけた。
「あ…………」
声を殺し、少年は竜を抱いた手を胸に引き寄せた。
温かい。




