39. 竜の納屋
◇ ◇ ◇
勝手口の扉を開けると、この朝よりも更に凶暴な表情をしたジェイコブが振り返った。
その表情を見た瞬間、そこにミルがいなくてよかったと思う。
調理台の上には朝と同じように、パンや野菜が盛られた皿が盆に載せられて、もう置かれていた。そして朝と同じように、ジェイコブが煮物を注いだ椀を叩き付けるかのようにそこに加えた。
だがそれが朝よりも乱暴で、がん、という音と共に、盆の上に煮物がこぼれた。
「……!」
もし今体力が残っていたら、ナギはジェイコブに殴りかかっていたかもしれない。
今日一日ナギが飢えに苦しんだのは、この男のせいだった。その男が、自分の食事を粗末にするのが、許せなかった。
「卵のことをハンネス様に言いやがったな!!」
小太りの男が、血が上った赤い顔で少年を睨む。
その罪を被せられたナギが、どんな目に遭ったと思っているのだろう。
まともな人間であれば到底向けられないような怒りを向けて来る男を、ナギは睨み返した。
料理人が歯ぎしりする。
「ちょっと、ジェイコブ。」
年輩の女中が、仕事仲間の様子に動揺を見せた。
これ以上ナギを痛めつけるのはまずかった。
さすがにジェイコブも分かっていたのだろう。
なんとか自分を保つと、ジェイコブは最後には荒々しく竈の方へ向き直った。
殴りたい程腹が立っているのはこっちの方だ。
理不尽が耐え難かったが、ナギは静かに自分の食事を手に取った。
争うような体力は残っていなかったし、そんな心の余裕も今はなかった。
息を詰め、少年は耳を澄ませた。
台所の外で誰かが騒いでいる様子はない。
食べた方がいい。
これから何が起こるにしても、何かを口に入れなければもう体が持たない。
僅かの距離を移動するのも辛かったが、ナギは物置きへ向かった。
まともに歩けない程に弱っていても、奴隷の少年が行かなくていい、と言って貰えることはなかった。
立っているのもやっとだったが、物置き部屋に入ったナギは先ず大きな寸胴鍋の上に盆を置き、それからバケツを持って来てその横でひっくり返した。
それがナギのテーブルと椅子だった。
体じゅうから力が抜けたかのように、少年はバケツの上にどさりと腰を降ろした。
ようやく食事が摂れる。
匙を持つ気力もなくて、ナギは手にした煮物の椀に直接口を付けた。
煮汁が口に入り、肉と野菜が溶け込んだ味がする。
尽きかけていた力が、少しだけ戻るのを感じた。
だが少年に味を楽しむゆとりはなかった。
ただ自分を回復させるためだけに黙々と食べながら、ナギの張り詰めた感覚は、外の気配を拾い続けていた。
短い時間で皿が空くと、ナギは右手に食器を持った。そして左手に持った盆に口を付けると、そこにこぼされた物まで全て飲んだ。
それで食事は終わりだった。
丸一日ほとんど食べられなかった十代の少年にとってそれは充分な量ではなかったが、気力と体力は僅かに回復した。
息が苦しかった。
騒動が起きるのなら、もう起きているだろう。
自分は乗り切ったのかもしれない。
強く、速く、心臓が内側から胸を叩いている。
今すぐ竜の所へ行きたかった。
だがナギには今日はまだ一つ、こなさなければいけない仕事が残っていた。
立ち上がり、少年は物置きの外へ出た。すると台所の入り口に、既に使用人の男が一人立っていた。
「さっさとしろ!!」
自分が何かをする訳ではないのに、ジェイコブが怒鳴ってくる。
何も言わずに流しで自分の使った食器を洗うと、逸る気持ちを押し隠し、ナギは使用人の男の許へ向かった。
この日最後の仕事を、一秒でも早く済ませたかった。
おそらくナギは、この館で一番頻繁に体を洗っている。
今日は奴隷の少年の二日に一度の沐浴の日なのだ。
男性の使用人用の浴室が台所から近い場所にあり、そこでナギは二日に一度、大きな盥に湯を張って体を流し、服を洗わせられている。
使用人の男はナギの足の鎖を外し、沐浴中の少年を見張るためにやって来るのだ。
ナギが最初に連れて行かれるのは屋内の物干し場だ。
物干し場は洗濯物を干すための紐が、向かい合う壁に何本も渡されている部屋だった。扉が三方の壁に一枚ずつあり、一つは隣の浴室に繋がっている。後の二つは廊下へ出る扉と、屋外に出る扉だ。
天気の悪い日以外は屋内に何か干されていることはほとんどなくて、常に吊るされているのはナギの服だけだった。紐を通して一昨日干した少年の服が、今日もぽつんと部屋の隅に下がっている。
ナギは紐の片端を壁面のフックから外すと、乾いた服を回収した。
その服を抱えて、ナギは浴室に向かった。
監視役の使用人はその日によって違ったが、どの使用人とも会話はほとんどない。
浴室には薪で湯を沸かすボイラーと大きな盥があった。
監視の男が片膝を着き、手にした鍵を無言でナギの足枷に差し込んだ。
かしゃん。
小さな音がして、鉄の鎖が外れる。
鎖を手にして男が立ち上がった。
「――――――――――――――――――」
急に体が軽くなり、今日はその変化に体が付いて行けなかった。
自分の体が自分のものでないような奇妙な感覚の中、ナギは服を脱いだ。
監視の男は黙ってそこに立っている。
自分は牛と同じだ。
沐浴の時、いつもそう感じる。
自分のためでなく、館の人間の快適さのために、体を洗わせられるのだ。
他人の目の前で。
ふと、不安を覚えた。
ミルもこんな目に遭うんだろうか。
さすがに監視役は女中だろうと思うが、そう信じきれないことが、堪らなく不快だった。
13歳は子供だが、人前で平気で裸になれる年齢でもない。
胸に騒めくものを感じながら、ナギはこの日の最後の仕事を終わらせた。
がちゃり。
全てが終わると、もう一度鎖が付けられた。
そして少年は、台所まで連れ戻された。
台所に入ると、調理台の上にナギには食材の名前も分からないような豪華な料理が、美しい皿に盛りつけられて並んでいた。
ブワイエ一家の夕食だ。
三人の女中が、三台のワゴンでそれを運び出そうとしている。
無言でその横を通り過ぎ、ナギは勝手口へと急いだ。
騒ぎは起きなかった。
牛小屋にいた人間は、もう全員引き揚げている筈だ。
扉を開ける。
少年に声を掛ける者はいなかった。
外へ出た。
空の色は茜色から白灰色に変わっていた。
冷気が肌を打つ。
どくどくと、心臓が痛い程に打った。
石塀に沿って館の脇を通り、牛小屋へと戻る木戸へ出る。
竜がいる、納屋が見えた。
走りたい。
走りたいのに、足の鎖がそれを許さない。
焦る気持ちが体の中で爆発しそうだ。
自分を必死で抑え付け、可能な限りの速さでナギは納屋へと向かった。
見渡す限り、他に誰の姿もない。
今、少しだけ自由の香りがする。
そして竜の納屋の前に、少年は立った。
一度だけ周囲を見回した。
息を止め、ナギはゆっくりと扉を引いた。




