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【第五章開始】竜人少女と奴隷の少年  作者: 大久 永里子
第一章 少年と竜
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38. 震える足

 故郷へ帰りたい。




 ミルと仲間達を、連れて帰りたい。




 三年かけて、初めて手にしたチャンスだ。



 たとえ勝率が低い賭けだとしても、自分からは降りない。





 白い布を畳むと、ナギはそれをわらの下に隠した。


 水がいる。

 牛の乳を搾る前に、牛の乳首を拭かなければならないのだ。


 もう井戸から水を汲み上げられない気がして、絶望しかけていた。

 でも後少しだけ頑張れる。


「ありがとう……。」

 わらの下の白い布に向かって呟いてから、再び靴を履き、ナギは梯子を降りた。



 「部屋」の下から桶を取り出す。


  やっぱり、間に合ってよかった。


 畑仕事の繁忙期には、夕方までに小屋に帰って来られないこともよくあった。

 だから牛が戻って来た時に小屋にナギがいなければ、使用人の誰かしらが代わりに乳搾りをするのが通例になっていて、今日も自分が間に合わなければそうなっていたと思う。


 でもそうしたら、さすがに桶が一つなくなっていることに気付かれたろう。

 多分桶を捜したりまではしないと思っていたけど、やはり危険だ。



 持てる力を振り絞り、ナギは井戸へ向かった。


 また足の鎖が鳴ったが、納屋からは物音ひとつ聞こえてこない。

 耐え難い程の不安を、ナギは押し殺した。



 麦畑にはもう誰もいない。


 縄に繋がれた桶を、井戸の底に落とす。

 桶を巻き上げるための鉄輪を、久しぶりに使った。

 牛の乳首を拭くためだけなので、必要な量は多くはない。

 ナギはなんとか水を汲み上げた。


 やっと汲み上げた水でナギが最初にしたのは、自分の喉を潤すことだった。


 桶を高く持ち上げるような力は残っていなかったので、井戸の上の丸太に繋がれたその桶の中から、両手で何度も水をすくった。



 夢中で飲んだ。



 生き返る気がした。



 それから顔を濡らして、少年は痛む頬を冷やした。


「さあ。」


  水を運ぶんだ。


 歯を喰いしばり、水を持ち、ナギは来た道を引き返し出した。

 鉄の鎖が、文字通りに彼の足を引っ張った。


  倒れない。


 少年は死力を尽くした。



 ナギが水を持って戻るのと、牛達が小屋に辿り着いたのは、ほぼ同時だった。

 牛を連れ帰った男はナギの顔を見て少しだけ驚いた表情をしたがそれだけで、後はなんの反応も示さなかった。


 牛を連れ出す時と連れ帰る時だけ人手がるが、放牧中の牛は放置に近い。

 牛と鶏の世話は、ナギがほぼ一人で担っていた。

 男は牛を小屋に入れ、裏口の扉を閉めると、以後は自分には関係ないとばかりに、ナギに声すらかけずにさっさと館へ帰って行った。


 いつものことだ。


 声と手で牛を追い、ナギはまず二頭の牛を一人で小屋の隅の搾乳用の柵に繋いだ。

 そしてバケツに乳を搾る。



 その作業が、今日は想像を絶する程に辛かった。


 目の前の牛乳しょくりょうを我慢することが、気が狂いそうな程に難しい。


 それでもナギは耐えた。

 今腹を下すと、命に関わりかねないからだ。


 絞った牛乳は業者から預かっているかめに詰め直さなくてはならなくて、これがまた重労働だ。


 同じ作業をもう二回繰り返し、今乳が出る五頭の牛から乳を搾り、それを全てかめに詰め終えた時、崩れ折れそうになった。






 終わった。






 牛乳代を徴収する使用人の男がやって来た。

 業者の男が引く荷車の音がする。

 台所から牛と鶏に与える野菜屑を持ってくる者も、もうすぐ来るだろう。



 その全員に納屋の竜を気付かれなければ、今日を切り抜けられる。



 牛小屋の入り口に座り込み、ナギは立てなかった。



 牛乳代の徴収に来た館の使用人は、そこにナギなど存在していないかのように振る舞った。


 少年の様子を少しだけ気にしてくれたのは、業者の男だった。

「その子はどうしたのかね?」

 ナギが小屋の入り口に並べたかめを自分が引いてきた荷車に積みながら、やや年いったその男は尋ねた。


 帳簿の様な物と、代金を入れるための巾着袋を持った使用人は、そう尋ねられてようやくナギを振り返った――――――――――不快げに。

「おい、さっさと飯に行けよ。」



  行かなくちゃ――――――――――――


 言われて、立たなければ、とナギは思った。


 やって来る者が全員去るまでここで見届けたかったが、不自然に思われる。

 いつもなら、牛乳を詰め終えたらすぐに食事に行っている。



 勝負に決着がつく瞬間にこの場にいられないのは怖かったが、いたからと言って、出来そうなこともあまりない。



 扉の枠を掴みながらナギはなんとか立ち上がった。


 だが、両足が震えていて、自分でびっくりした。



 もう本当に限界だった。



 隣の納屋が目に入る。


 息と胸が苦しくなったが、少年は納屋と反対側の館の方へ向き、よろよろと歩き出した。



  もう少しだ。


  絶対に倒れない。



 野菜屑を入れた桶を持ってやって来た男と、鶏小屋の手前で擦れ違う。

 これで全員だ。



 彼らが引き上げた時に竜が見つかっていなければ、自分の勝ちがほぼ決まる。




  無事でいてほしい。


  そして後ほんの少しの時間だけ、見つからずにいてほしい。




 心臓が痛くなる程の緊張を抱えながら、振り返らずに、ナギは館の台所へと向かった。



 命を賭けた勝負の初日に、決着が着こうとしていた。


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