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【第五章開始】竜人少女と奴隷の少年  作者: 大久 永里子
第一章 少年と竜
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37. 最後の一時間

 干し草の納屋が見える。



 見つけられることなくここまで乗り切った。


 気が抜けて途切れそうになった集中力を、無理矢理繋ぎ直す。



  まだ終わっていない。



 あと一時間くらいある。


 今すぐにあの納屋の扉を開けたいが、まだ駄目だ。

 これからここには、複数の人間がやって来る。

 納屋に出入りするのを見咎められたら、終わりだ。



  ごめん。



 罪悪感で胸が押し潰されそうだったが、ナギは竜がいる納屋の手前で右に折れて、牛小屋へと入った。


 牛小屋の扉は、正面も裏口も、開け放たれたままになっていた。

 こうしておくと幾らかましだが、やはり家畜の臭いはきつい。

 放牧されている牛達は、もうじき裏口から戻って来る。



 その牛達の乳を搾るのは、ナギの仕事だ。

 それに間に合ったことが、いいことなのか悪いことなのか分からない。



 ここまで見つからずにいてくれた竜が、自分の声や鎖の音に反応して、もしかしたら騒ぎ出してしまうのでは、と少年は恐れていた。



 だが今、少年の足の鎖が鳴っていても、納屋から物音は聞こえてこなかった。



 たまらなく不安になり、少年は今入った入り口を振り返った。

 やはり納屋を見に行こうと思い直し、少年は引き返しかけた。


 だが小屋を出る寸前で、彼は思い留まった。



  竜の様子を確かめて、それでどうする?

  これから色んな人間がやって来る。

  また赤ちゃん竜に言い聞かせて、そのあいだは納屋に閉じ込めるのか?




 人の出入りがなくなるまで、やっぱり納屋には行けない。



 たくさんの感情をねじ伏せて、ナギは牛小屋の奥へと戻った。


 あと一時間。

 自分に言い聞かせたが、正直その時間を持ちこたえられる自信がない程、彼は弱っていた。



  ――――――――――――ここまで来て。



 しがみつくようにして六段の梯子を登る。

 誰かが来る前に、しておかなければならないことがもう一つある。


 その場所を見た時、一日のあまりの長さに気が遠くなる思いがした。

 光の中で黒い竜が生まれた、この朝の出来事がずっと昔のようだ。



 よろめきながらその場所に帰ると、ナギは先ず靴を脱いだ。

 「布団」を汚したくないので、不潔な木靴はいつもわらから遠い部屋の隅に置くようにしていて、それがここに戻って来た時に彼が真っ先にやることだった。



  ………包みの中味を確認して、隠さないと。



 靴をよけ、わらの横で腰を降ろすと、少年は力ない動きで自分の服を捲り上げた。



 ヴァルーダの服は、女性は上から下まで繋がった前ボタンのドレスで、男は上からすっぽりかぶるシャツにズボンというのが基本の形だった。

 寒い時期は中に着る物を増やすのだが、襟ぐりから覗く内側の服の色と、外側の服の色のコーディネイトを楽しむ感覚は、ヤナの服にも通じるものがある。

 ブワイエ家のように多少裕福であれば、刺繍や貴石で飾られた前()きの上着を羽織ったりもしていた。


 もちろんそんな上着など、ナギには縁がなかった。


 ナギに与えられている服は誰が着ていたともしれない古着で、与えられた最初の時から薄汚れて、くたびれていた。



 ミルから布包みを渡された時、ナギはそれを内側のシャツの中に隠し、包みが落ちないようにそのシャツの裾をズボンの中に入れた。

 ヴァルーダ人の男は上衣をズボンの外に出していることが多く、ナギもいつもそうしていたが、内側に着ているシャツの裾なら外から見えないので、女中に気付かれることもなかった。


 神経を研ぎ澄ませて周囲の様子に気を配りながら、ナギはそっと白い包みを床の上に置いた。



 この布はどうしたんだろうと、まずそこからナギは不安だった。



  奴隷商人が、見落としたんだろうか。



 奴隷狩りに遭ったあと、服にポケットがあればそれをひっくり返されて、ナギ達は着ている物以外の全てを取り上げられた。

 同じことをされたのなら、布一枚でもミルが持っていたと思えないのだ。



  ミルの物じゃないのかもしれない。



 大胆なことを、と思ったその時意識が遠のきかけて、少年はひやりとした。



  まだ。


  まだ仕事が残っている。


  ここまで来て、倒れるなんて。



 こらえろ、と自分に言い聞かせる。



  まだ勝負は終わっていない。



 ほとんど朦朧としながら、ナギは白い布包みを開いた。


 人が近付く気配がしたら、すぐにわらの中にそれを隠そうと思いながら。





「――――――――――――――――――」





 声が出なかった。




 胸が苦しい。




 ナギは叫んでいた。




 叫んでいるのに胸が一杯で、声が出なかった。




 三切れのパンと、少量の野菜。





 ミルはきっと、彼女じぶんの昼食を、取っておいてくれたのだ。




 危険を冒して――――――――――――――――。





 手が震えた。 


 薄くスライスされた固く黒いパンを、震える手でナギは砕いた。

 普段はパンと一緒に出される汁物にけながら食べている。


 小麦粉だけで作られた白いパンは、ブワイエ一家の口にしか入らない。


 色の濃いパンは人に飲み込まれるのを拒もうとするかのように固かったが、そんなことは関係なかった。


 ナギは黙って、固い塊を口に運び続けた。



  ミルだって、今は体力が必要な時なのに。

  見つかったら酷い罰を受けるかもしれないことだって、

  分かっていただろうに。



 赤く変色した頬を、涙が伝った。





 乗り越えよう。




 あと一時間。




 少しだけ体に力が戻る。





 遠くから、微かに牛を追い立てる男の声が聞こえた。

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