34. 少女のいきさつ
もう一度ミルに会える。
ナギが安堵したのは自分のためではなく、ミルのためだった。
一番危険な時間が近付いていた。
少しでも、これから将来のミルの力になれるような言葉や記憶を残せれば。
ミルと話せるのは、これが最後かもしれなかったのだ。
運命の時は、もう目の前だった。
◇
連れて行かれたのが昨日と同じ部屋の前で、ミルが一日台所仕事をさせられたりしなかったと知れて、ナギは多少安堵した。
だが女中が一言の声も掛けずに、いきなり部屋の扉を開けた時は、ぎょっとした。
女同士ならともかく、自分もいるのに。
驚いた表情を浮かべているミルと目が合ってしまい、悔しかった。
人としての尊厳を踏みにじられるような、こんな思いをさせたくないのに。
自分とミルは、やっぱり人間扱いされていないのだ。
幸いにミルは、着替え中だったり、治療中だったりはしなかった。
「ナギ………!」
ベッドの上で半身を起こしていた少女は目を一杯に見開いて、ずっと案じていた少年の名を呼んだ。
◇
昨日と今日、ナギとミルは、細切れに言葉を交わしただけだった。
だからおおよその内容でしかないけれど、これまでのミルの経緯を、ナギはある程度は理解出来ていた。
昨日のあの馬車の中には、ヤナ人も子供も、ミルだけだったそうだった。
他の囚人は全て、大人のセナム人だったと言う。
セナムは、ナギとミルの故郷であるヤナ国の、西側に位置する国だ。
セナムとの国境線の辺りの地形は複雑で、その辺りではヤナとセナムと、ヴァルーダの領土が入り組んでいた。
おそらく奴隷商人達は、セナムに奴隷狩りに行ったのではないかとナギは思う。
ミルと詳しく話が出来ていないので推測に過ぎないけれど、奴隷商人達はセナムからヴァルーダに帰る道で、ヤナの領土を通ったのではないだろうか。
もしかしたらミルは、不幸な出会いで、ついでのように攫われたのではないだろうか。
ナギのこの推測は、ほぼ正解だった。
故郷が国境に近い所にあるミルは、一人で歩いていた時に、偶然に奴隷商人達の馬車と出会ってしまったのだ。
◇
セナム人の男女が既に何人もいた檻の中に、あの日少女は、まるでおまけのように押し込まれた。
突然、手と足に鎖を嵌められて。
恐怖で何度も泣き、互いに言葉の通じないセナムの人達に、少女は幾度も慰められた。
だがミルを襲った悲劇と困難は、それだけでは終わらなかった。
ここに売られてくるまでナギ達と同じように、ミルとセナムの人達も、時折馬車を降ろされて歩かされた。
ある時ミル達は、馬車の後ろを付いて歩くようにして、やや傾斜のきつい坂を登っていた。
すると突然、目の前で馬車の車輪が外れた。
何十キロとある重い鋼鉄の車輪が、ミル達を襲った。
当然よけようとした。
だが土の坂を車輪は不規則に跳ね、よけたミルを追うようにして少女を直撃した。
奴隷狩りの頭領が、ミルの怪我を「治りかけ」と言ったのは、完全な嘘ではなかった。
ミルの怪我は事故の直後はもっと酷くて、それから数日、ミルは馬車の中で寝たきりだった。
多分、死んでいてもおかしくはなかったと思う。
ミルにとって幸いだったのは、攫われたセナム人の中に、医術の心得がある男性がいたことだった。
異国人の少女を、セナム人の医師は、懸命に治療してくれた。
その時のことをミルはまだナギに詳しく話せていなかったが、奴隷商人達は事故からしばらくの間、自分を途中で捨てて行くことを検討していたと思う。
ミルの様子を見ながら、男達は何度も、不気味にひそひそと話し合っていた。
あのセナム人の医師には感謝してもしきれない。
互いに言葉が通じなかったので自分の体の状況を教えて貰うことは出来なかったが、ミルは動けるまでに回復し、おそらくはそのお蔭で、山野に置き去りにされずに済んだ。




