30. 書庫の悪意
瞳に悪意を躍らせながら、領主の息子は楽しげに命じた。
「昔読んだ本が必要になった。捜し出せ。」
「字が読めません」と即答しかけて、ナギは言葉を飲んだ。
それはハンネスも、当然分かっている筈だ。
分かっていて無理難題を言っているとも思えたが、まずは最後まで話を聴こうと思った。
だが続いたハンネスの言葉は、僅か一言だった。
「『近代刑法の成立とその背景』だ。」
―――――――キンダイケイホウノセイリツトソノハイケイ。
ナギの知らないヴァルーダ語の羅列だった。
それは当然で、ナギが麦畑と台所で聞かない言葉を知る機会は、ほぼないのだ。
念のため、ナギは更に数秒、ハンネスの言葉の続きを待った。
だが嬉しげにただ笑っているハンネスに、ナギの必要を満たす気はなさそうだった。
ナギの余力はもう残り少なくて、人の悪意に向き合うのが難しかった。
それでもナギは腹に力を入れ、正面から相手の視線を受け止めた。
そして「字が読めません。」と、短く告げた。
「字が読めないのか⁈おいおい。」
もしかしたら、「卵の報復」だったのかもしれない。
ハンネスのこの行為は、明らかに嫌がらせだった。
ナギにヴァルーダ語の読み書きを教えなかったのは自分達だろうに、領主の息子の振舞いは、子供じみていた。
体力の温存を選んで、ナギはハンネスの不当な言い様を聞き流した。
その本が本当に必要であるなら、指示の続きがあるだろう。
純粋な嫌がらせ目的だったとしたら、その本がちゃんとここにあるかどうかも疑わしいと微かに不安を覚えたが、ハンネスは老使用人に右手を突き出し、「書く物を」と命じた。
いい年齢をした主人のこの行動を、問題に思わないのだろうか。
使用人の態度にもナギは疑問を感じたが、老臣は顔色一つ変えずに、腰の小さなポーチから羽ペンと紙片を取り出して主人に差し出すと、続けて携帯用のインク入れを取り出して蓋を開け、それは自分で捧げ持った。
小さな真鍮の容器の中に、ガラス製のインク瓶が入っていた。
老臣が恭しく掲げるインク入れにペン先を浸すと、変に大袈裟な動きで、ハンネスは紙片に字を書き付けた。
「ほら!」
字はすぐに書き上げられ、掌ほどの大きさのメモがナギに突き出された。
受け取って、ナギはその紙面に目を落とした。
少年が読むことの出来ない文字が並んでいた。
この字と照合しながら、捜せと言うのだろう。
領主の息子の顔に、残忍な笑みが浮かんだ。
「牛が戻って来るまでに見つけろよ。見つからなかったら、夜も捜せ。見つかるまで食べさせないからな。」
その言葉に、初めてナギは顔色を変えた。
心臓が激しく打った。
必死に、夕食が貰える夕方まで耐え抜こうとしていた。
それ以上は、持ちこたえられる自信がなかった。
メモを持つ手が微かに震える。
以前にこの部屋に入ったのは、二年近く前だったと思う。
溢れる本で収拾がつかなくなっていたこの部屋で、たった一人で書棚から一度本を全て出し、それを綺麗に棚に収め直し、新しく生まれた書棚の隙間に床に置かれていた本を入れ、それでも入りきらなかった本の山が、山崩れを起こさないように整えた。
それから今日まで、この部屋に入った人間はほとんどいないのではないかと思う。
今見ている光景は、ほぼナギが棚の整理をした、あの時のままだ。
その時の仕事は、思っていたより体に堪えた。
「紙は重いのだ」と、気付かされた出来事だった。
―――――――――――――そう、紙は重い。大量の本を棚から出し入れする作業は、だから、重労働なのだ。
「――――――――――――本は何色ですか?」
「覚えてないな。」
「どの辺りにありそうですか。」
「知らねーよ。」
残酷な笑顔で言う男の声を聞きながら、ナギはその部屋の中を見渡した。
数千冊はあるだろう。
読んで下さった方、本当に本当にありがとうございます!
お気付きの方も多いと思いますが、予定の30話で終わりそうにありません。
一話3千字くらいのペースで上げられていればいけたかもしれないのですが、これは話数がダブルスコアしそうなペースです……。
気長にお付き合い頂ければ嬉しいです。




