25. 最初の関門
どくん。
心臓が大きく脈を打つのを感じた。
がたごと、がた…………
荷車を引く音が聞こえる。
緩やかな坂の上に家畜小屋の屋根と、三階建ての領主の館が見える。
館は等間隔に六つ立つ煉瓦造りの柱と、鉄柵の向こう側に佇んでいた。
ナギが三年を過ごした家畜小屋は、館の南側だ。
家畜小屋の前の石塀は、館の前の鉄柵よりやや奥まった場所にあり、館寄りの半分程は二重になっている。
業者の男の荷車は、二重の石塀の間の通路を抜けて、村へと向かっていた。
がたごと、ごと………
長閑な音だった。
業者の男はいつもと同じだった。
老人と言うには少し早いがやや年嵩で、五本の土色の甕を載せた荷車を、丸首の黒い上衣に、灰色のズボンを履いた男が引いて行く姿は、ただ静かで、そして穏やかだった。
「―――――――――――――――――――」
ナギは石塀の奥を見やった。
竜のいる干し草の納屋の屋根が、塀の向こうに覗いている。
静かだ。
なんの騒ぎも聞こえない。
乗り切ったのか―――――――――――――――――
息が苦しい。
心臓が波打った。
自分は恐らく、最初の関門を突破したのだ。
無言で、ナギは麦畑に向き直った。
気を抜いてはいけない。
長く立ち止まって、怪しまれては駄目だ。
麦畑に向かって、再び少年は歩き出した。
あの納屋の中で、今竜はどうしているのだろう。
ずっと自分を追っていた、小さな竜の姿を思い浮かべた。
生まれたばかりの赤ちゃん竜に、自分は酷いことをしていると思う。
身勝手を承知で、無事にもう一度会いたいと願った。
麦畑の手前には館の使用人が一人、畑仕事の監督として立っていた。
麦は今足首程の高さで、広大な緑の絨毯の中のあちこちで、十五、六人程の男女が、屈み込んで作業していた。
ここにやって来る村人は、毎日違う。
ナギはヴァルーダ語の多くをこの麦畑で覚えたが、未だに複雑な会話はこなせない。
だから細かい事情はよく分からないのだが、この畑には近くの村から各家の代表が、当番制で駆り出されて来ているようだった。
この作業に従事した村民には日当が出されているが、それが随分安いらしくて、村民達の不満はかなり大きかった。
彼らが「どケチ領主」とヘルネスを罵るのを、ナギは何度も聞いている。
家畜小屋の世話を終えてからやって来るナギは、いつも畑仕事の開始時間には間に合わない。
少年が遅れてやって来るのは普通のことだったので、注意を払う者もいなかったのだが、監督役の館の使用人が、ナギの顔に気付いて眉根を寄せた。
ほとんど同時に、村人の男が一人、畑の中でふと顔を上げた。
「おいどうした。」
茶髪の男が、麦畑の縁に辿り着いたナギを見て困惑した声を上げる。
「あらまあ……」
「誰にやられた?」
声を聞きつけた村人達が次々と少年奴隷を見やり、驚きの声を上げた。
鏡を見る機会もなかったので自分の顔が今どうなっているのかナギには分からなかったが、だいぶ酷いらしい。
「料理長です。」
と少年が答えると、畑のあちこちからまた続々と声が上がった。
「あのデブか。」
「あいつしょうがねえな。」
俄かに麦畑は賑やかになった。
領民達は異国人の奴隷に、決して親切だったり、同情的だったりする訳ではなかった。
だが彼らは館の人間よりはナギの立場の方に共感を覚えるらしく、こんな時には大抵ナギの側に立って、館の人間を罵った。
少なくとも館の人間に比べれば、ナギと彼らは、遥かに人間的な会話が出来た。
気の滅入る仕事の最中に思わぬ話題が提供されて、それから畑はひとしきり、小太りの料理人を話の肴にして盛り上がった。
領主一家に対する悪口でもないので監督役の使用人もそれを咎めず、ナギは村人達の鬱憤晴らしに幾らか役立ったらしい。
遅れて仕事に加わったナギも、静まり返った中で作業をするよりは、気持ちが励まされた。
それでもしゃがみ込んで畑仕事をしていると、時々気が遠くなりかけた。
倒れない。
絶対に。
心の中で、少年は呪文のようにそう唱えていた。
この時期の麦畑でする仕事は、そう多くない。
今日の作業は、一年の内でもかなり楽な部類だ。
一人一人に担当の畝が割り当てられていて、雑草を抜き、害虫を潰しながら、その畝を全員が地道に進んでいた。
必死に自分を支えたが、この日のナギは一人だけ、明らかに仕事が遅かった。
遅れてやって来た分を差し引いても進みが悪くて、監督役の使用人から叱責する声が飛び、村民達はナギの異常を感じ取った。
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