24. あらん限りの思い
みぞおちに痛みを感じながら、ナギは床掃除を終わらせた。
馬小屋の世話を終えた頃に胃に感じていた痛みは、徐々に腹全体に広がり、極度の空腹は、いつしか腹痛と一体化していた。
「さっさと出て行け!」
小太りの料理人が、不快げに怒鳴る。
朝食後にナギが向かわなければならないのは、麦畑だ。
全身ずぶぬれで、命の危機を感じる程ジェイコブに殴られ、それから飢餓を抱えたまま続いた重労働―――――――――――――二年前は、それで倒れた。
でも今は、絶対に倒れたらだめだ。
15歳の少年は、歯を喰いしばった。
ナギが台所を出て行きそうな雰囲気を察したのだろう。少年が床の始末をしている間じゅう、今にも泣き出しそうな顔で彼を見守っていたミルの瞳に、不安の色が加わった。
二人が次に会えるのはいつなのか、ナギにも分からなかった。
――――――――――――もしかしたらもう二度と会えないかもしれない。
「―――――――――――――――――――――」
この場所に彼女を独りにしてしまうかもしれないと考えると、比喩ではなく胸が冷たくなった。
竜の赤ちゃんはもう生まれてしまっているのだから、引き返しようがない気はする。
でも何か別の道を考えるべきじゃないのか。
迷いが生じた。
だけど。
たとえ港すら出られずに沈んでしまう可能性が高い、一か八かの船だとしても。
全員を救えるかもしれない希望の船には、きっともう二度と出会えない。
ジェイコブが今にも殴り掛かって来そうに苛立っているのを感じる。
それでも数秒だけ勝手口の前で立ち止まり、少年は少女と視線を交わした。
自分と同じ、足に鎖を着けられた少女。
もし自分に何かあっても、挫けないでほしい。
あらん限りの思いを込めて、彼女を見つめた。
ごめん。
勝ち目の少なすぎる賭けをすることを、心の中で謝る。
でも最善は尽くす。
そして少年は振り返り、扉を開けた。
彼女を一人にしないためにも―――――――――――――――
死んでも倒れない。
◇
館の門から麦畑までは大きな空き地で、緩やかな下り坂だった。
空き地を通って麦畑に向かう道と、麦畑の南を通って領民達の村に向かう道が、館の前で出会っている。
空気は冷たかったが、天気は清々しいくらいにいい日だった。
ナギがヴァルーダの気候について知る機会などなかったが、少なくともブワイエ領は雨が少ない地域にあるようで、降られることはあまりなかった。
だが普段はありがたい冬の陽が、今日はなぜか体に堪えた。
本当に体が辛いと、日差しすら堪えるものらしい。
両頬と腹が痛んで、歩くことさえきつい。
足を引き摺るように、ナギは緑の畑に向かって歩いた。
鎖が重い。
広い空間には樫の木が数本まばらに生えているがそれだけで、館からはかなり遠くまで見渡せる。
ブワイエ家の麦畑の手伝いには地元の村人達が雇われており、畑仕事はいつもナギが麦畑に着く前に始まっていた。
今日も既に畑で働いている人々の姿が向こうに見えた。
がしゃん。
鎖の音がする。一歩一歩が重い。
倒れない。
命懸けのこの勝負に、自分が出来ることはほとんどない。
ほんの僅かしかない「自分が出来ること」に、全力を尽くす以外ないのだ。
倒れない。絶対に。
その時。
少年の耳に木が軋む音が届いた。
振り返る。
がたがた、ごと…………
牛乳の甕を載せた荷車。
村へ向かう道を、荷車を引く男が歩いていた。
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