235. 獣人の狂気
垂直に近い程急な斜面には草や低木が茂っていて、土肌が斑に覗いていた。
まだ世界は黒々といていて、ずっと上に聳え立っている筈の郭壁は、よく見えなかった。
夜通し灯されている筈の郭壁上の灯は、消えたまま放置されていた。
「イゼル………リル」
通路の出口を懸命に探した。
隠し通路の存在を知った後にこの谷底へ降りてみたのは、一度だけだった。自然の地形の中に隠すように造られた足場の位置を確認するためだった。だから茂みに覆われた通路の出口を以前に見上げたのもその一度だけで、この時が二度目だった。
通路の出口もそこから続く足場も、入り口と同じように、存在を知っていてさえ容易には見付けられないようになっていた。
足場が見付けられればそこから上まで目で辿れただろうが、下から見る足場は斜面の凹凸や草木の向こうに隠されていた。おそらく最初からそう計算されていたのだろう。一番地面に近い足場でもかなり高い位置にあったため、人の背ではそれすら見付け難かった。巨大な姿で斜面を見降ろした方がよかったのかもしれないが、だが結局、そうする前にわたしはその場所を探し当てた。
わたしと<蠍蜘蛛>が折ってしまったのだろう低木の枝や葉が、出口の真下に近い辺りに散らばっていた。
数百年前のパレタイルの臣下達の、工夫の跡なのだろう。
通路の出口の辺りだけ、木が少し多い。木に覆われたその奥に、出口の扉がある筈だった。
濃い灰色に包まれた世界で、その場所をしばらく見つめた。
一度感情が潰えた後から、変に冷静だった。
それを認めてしまったが最後、気が狂ってしまいそうに感じていたのに「二人はもういないのだ」と、少なくともわたしは、理解は出来ていた。
―――――――――――いや、あの時わたしは、狂っていたのかもしれない。
背中の傷が激しく傷んで、こめかみに冷たい汗が滲んだ。
斜面に近付こうとしたが、手や足も怪我を負っていて、まともに歩けなかった。よろけながら前へと進んで、その場所の真下で、斜面に手を触れた。
「イゼル………」
朝が来る。
だがイゼルとリルはもういない。
理解は出来ても、受け容れられはしなかった。
滅ぼしてやる。
愚かな者達を胸の中で見据えた。
ヴァルーダの王も、名も分からぬ男も。
国ごと滅ぼしてやる。
二人の命の対価を知るがいい。
イゼルとリルが眠る場所を、わたしは見上げた。
本当は、少しでも二人の傍に行きたかった。
二人が最期を迎えた場所を、この目で見ておきたいとも思った。
だがわたしは、その場所に登ることをしなかった。
「今のわたしにはその資格はない」と思えた。
全てが終われば、わたしはあの場所に行けるのかもしれない。
その時谷の間から朝日が昇り、白い光が瞳を射した。
強烈な飢餓を覚えていた。
昨日から、巨大な体を使い過ぎていた。
わたしの体は、大量の食糧を必要としていた。
獣人の世界に帰れば餓死せずに済むと分かっていたが、そうしなかった。
何か食べなければ、と思った。
人が通ることは滅多になかったが、その谷底は一応道でもあり、どちらの方向に進んでも人里には出られた。
少しだけ迷った。
東への道は、頭上の王都へと戻る道だった。
戦の勝敗は既に決していて、ヴァルーダ側の獣人に攻撃される恐れは少なかったが、人間の兵士は違う。ヴァルーダ兵に見付かれば、面倒は避けられなかった。
だが西の道は、最初の集落に出るまでに二日近く掛かった。そこまで持ち堪えられそうになかった。
イゼル………リル………
痛い程の眩しさの中で斜面に額を付け、目を閉じた。
全身の感覚が、イゼルの存在をまざまざと甦らせた。
指に絡んだクセの強いイゼルの髪。抱き締めた細い体。顎に触れた柔らかな唇。
「―――――――――――必ず」
そう告げて、わたしは東を向いた。
斜面を掴む右手で体を支えて、視界を奪う陽に向かって、よろめきながら歩いた。
通路の出口が埋まっていなければ、二人のために用意した食糧や傷に当てられる布が残っていた筈だが、それでもその場所へ登ってみようとは思わなかった。例えそこまで登ったとしても、そしてそれらが埋もれずに残っていたとしても、手を付ける気はなかった。
あれは、二人のものだ。
◇ ◇ ◇
道はずっと急な上り坂で、時々気が遠くなった。
長い時間を這うように歩き、やがて陽がすっかり高くなった頃、王都へと続く街道が見え出した。
そこで目に入った光景にはっとして、わたしは足を止めた。
読んで下さっている方、今日たまたま読んで下さった方、本当にありがとうございます!
第四章は、次回かその次で完結予定です!




