232. その夜のこと
血溜まりはまだ広がり続けていた。
狙いは竜の卵――――――――――わたしだったのかもしれない。
呼吸が苦しくなり、思考を半分閉じた。そうしなければ、その場に崩れ落ちてしまいそうだった。
ヴァルーダ側の獣人に見付かってしまう。ここに留まっている訳にはいかない。ただ機械のように動いて、わたしは地上に向かった。
竜の卵の在り処とイゼル様達の命は引き換えになっている。
ご一家を無事に逃がすまで、わたしは死んではならなかった。
ほんの少し前にお二人を連れて歩いた通路を、一人で戻った。
入り口まで引き返すと、内側の鍵がちゃんと掛けられていた。人間の兵士が通ったのだから、扉は一度開けられた筈だ。<蠍蜘蛛>が表の閂だけ破壊したのだろうと思ったが、目で確認することはなかった。
ランタンの火を扉の前で吹き消して、わたしは何も持たずに外へ出た。
金属が打ち合う音がしていて、時折、重く低い音と共に地面が揺れた。
もう夜を迎えていた。
自分の手足すら見えなかった。
真っ黒な山肌に蛍のように火が散らばっており、それが赤すぐりの宮に集結しようとしていた。その場所から見えたのは、火と、赤すぐりの宮の一部だけだ。
星が降るように天を埋め尽くしていた。
わたしの存在が、この国を滅ぼしたのか。
確証はなかった。だが一度胸に抱いた疑念は薄まることなく、むしろ時間が経つ程に濃く強固になった。
憎しみで気が狂いそうだった。
獣人の「記憶」には、人間の酷さは山程記されている。
知ってはいた。
だがどこまで残酷になれる?
感情に呑まれては駄目だ。
理性を必死に繋ぎ止めた。
成すべきことが、まだ終わっていない。
「陛下……」
もう時間がないと思えた。陛下と王妃様の救出が本当に叶うのかと、強烈な不安を覚えた。
合いの子の卵がある部屋に、並んで座られているお二人の姿が見えた。
他の一切を切り捨てて、ご一家の命だけを守ろうとしたあの時のわたしの行動を、釈明出来る言葉はない。
王家の血筋だけでも残そうとしたことは、人間の臣下達も賛同してくれたかもしれない。でもそれは、動機の一部だ。
ご一家の命を守ろうとした。その動機の大半は、ご一家が、わたしにとって家族だったからだ。
陛下は脱出を望まれていなかった。生き延びられても、竜の卵のことを知ればわたしを憎悪されるかもしれない。
それも理解していてなお、わたしはご一家の全員に生きていてほしいという願いを、捨てることが出来なかった。
ご一家の脱出まで、わたしは地を這ってでも生きなければならなかった。
幾つもの火が近付いて来るのが見えた。
兵の一部がこちらにやって来るらしい。獣人の気配はなかった。姿を消せばやり過ごせるだろう。
姿を消して、それから……。闇の中でその先を思案していた時。
鼓膜を破りそうな音と風に襲われた。
「!!」
ごうっ、と空気を裂く音がして、吹き飛ばされた体に小石と風が激しく当たった。<風切鷲>だと分かったが、なす術もなく体は宙を舞った。暴風の中でドォン、という重い音が繰り返し聞こえたが、なんの音なのか分からなかった。
何も見えない中で地面に打ち付けられて、ようやく体を止めることが出来た。
人間もかなり巻き込まれたようだった。顔を上げると、遠くの地面に松明が散らばっていた。油を含んでいるために、松明の火は消えることなくそのまま燃え続けていた。
ゴッ……!
地面すれすれにまで押されたらしい<風切鷲>が、再び急上昇して行った。その姿が、闇に朱く照らされる。
「っ……!」
油断した、と思った。<風切鷲>は一瞬で長い距離を飛行するため、かなり注意していないと位置を見失う。<風切鷲>が近付いていたことが、分からなかった。
全身に痛みを覚えた。
早く交戦場所から離れなければ。
よろよろと立ち上がろうとして、気が付いた。
地面が割れている。
今の衝撃で?
でも何かがおかしい。
なぜあんなに直線的に。
半瞬置いて、背筋がぞっとした。
「イゼル………………………?」
聞こえた自分の声は、変に掠れていた。
◇
記憶はその後から曖昧だ。
何度も地中に潜ろうとした。
でも上手くいかなかった。
地中には視界がない。空気がある場所も見付けられなかった。
崩落の範囲は、通路の入り口からそれ程離れていない。
イゼル様達が通路に入ったのは数分前だった。
微妙な時間の経過だった。
数回失敗を繰り返して、ようやく、もっと出口に近い方から潜ろうと考え付いた。
陥没ヵ所から遠い場所なら、きっと通路は無事だ。隠し通路はほぼ直線的に造られていたので、位置の当たりは付けられた。
ただ通路は出口の崖に向かって傾斜していて、入り口から遠ざかる程に深くなっていた。
深すぎる場所だと息が続かない。
そこからまた数回失敗した。
狂ったように地面に潜ることを繰り返した。
時間だけが無情に過ぎて行った。
地上では人間の戦闘が続いていたが、わたしの目にはもう入っていなかった。
一体何度目のことだったのか。
視界の隅が、ふっとオレンジ色に染まった。
息が出来た。
灯り。
真っ暗な通路の奥に、微かな灯が灯っていた。
「イゼル――――――――――――――リル!」
叫びながら、わたしは闇の中で坂を駆け上がった。
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