231. 「イゼル」
血に浸かっていた兵士達の足が、壇上を赤く踏み汚した。
<蠍蜘蛛>とヴァルーダの兵士達が声を潜めて言葉を交わす様子を、リル様は硬い表情で見つめていた。そんな王子の背中に、イゼル様は体を付けてぴったりと寄り添われていた。必要な時には弟の盾となるおつもりだったのだと思う。
「この通路は使わせて貰おう」
ヴァルーダ語で兵士達にそう告げると、<蠍蜘蛛>は「糸を切って来る」と言い置いて姿を消した。
扉はやはり、<蠍蜘蛛>の糸で塞がれていた。
扉の向こうはその時真っ暗だった筈だが、<蠍蜘蛛>の目は闇でも見えた。<蠍蜘蛛>は地中を掘り進む能力も持っていて、秘密の仕事には向いていた。
時折地面が微かに揺れた。皮膚が凄惨な気配を拾った。城壁の内側で最後の戦いが繰り広げられていた。
程なくして内側から扉が開き、わたし達がこじ開けようとして砕いてしまった浮彫りの欠片が、ぱらぱらと地面に落ちた。
「……!」
隠し通路を見たお二人が小さく息を呑まれた。
想像はしていたが、<蠍蜘蛛>は扉の後ろにびっしりと糸を張っていて、それが白い壁のようになっていたのだ。
<蠍蜘蛛>の糸をあの厚さで張られると、獣人でも破れる者は限られる。
<蠍蜘蛛>が自分の糸を簡単に切れるのは、彼らの鋏が単純に強靭だからと言うのではない。その鋏と尾に、糸の強度を弱める力があるからだ。もし鋏や尾が封じられた時には彼ら自身でも容易には切れないと言うくらいに<蠍蜘蛛>の糸は強く、ああいう使われ方をした時は厄介だった。
薄っすらと光る白い壁は扉の幅と高さに合わせて刳り抜かれていて、<蠍蜘蛛>は人の姿でその中に立っていた。
「ご子息達を出口までお連れしてくれ」
五人の兵士達に、<蠍蜘蛛>が指示を出した。
「後で落ち合おう。俺は国王夫妻の救出を手伝って来るので少し遅くなる」
「はっ」
『手伝う』――――――――――――――――――――――
彼らの仲間が他にもいて、そちらは陛下達の方に向かったのだと思った。
彼らはヴァルーダ軍の中枢に入り込める立場と、それなりの人数を有しているのだと推測出来た。
おそらくヴァルーダで、反乱が起きようとしている。
竜を手に入れれば、あの巨大な国を乗っ取ることが出来るだろう。
この戦の目的は、本当に<巨人>の卵だったのか?
名乗ることがなかった男に交渉を求められた時から、胸で微かにくすぶっていた疑念がふいに形を取った。
目的はわたしだったのでは。
そう思った時、血の気が引いた。
そのためにこの国を………?
もしそうだったのなら。
憎悪が体の底から噴き上がった。
滅ぼしたいと思う程の憎しみを覚えた。ヴァルーダと、この世界と人間達に。
「リュート………?」
大切なひとの声が聞こえて、わたしはぎくしゃくとそちらを向いた。
わたしの様子は明らかにおかしかったのだろう。
姉弟が不安そうにわたしを見つめていた。
思念の世界で交わされた竜の話を、わたしはまだイゼル様達に告げていなかった。
鳶色の瞳を、声もなくわたしは見つめた。
と。
イゼル様が前に出て、わたしにしがみ付かれた。
胸に優しい重みが掛かって、わたしの腕は自然に姫の背中に廻っていた。
茫然としていたわたしの顎に、柔らかなものが触れた。
はっとした。
瞳が合う。
17歳のイゼル様が、爪先立ちで届いた高さ。
そっと離れたイゼル様が、弟の横に戻った。
森の男神と実りの女神の壁画の前で、わたし達は小さな輪になっていた。
「……………………………イゼル」
呟くようにそう呼ぶと、イゼル様と王子は少しだけ目を見開いて―――――――――それから二人とも、小さく微笑った。
「王子、姫君、こちらへ」
<蠍蜘蛛>から遂に声が掛かった。
全身を強張らせたわたしの前で、二人はもう一度微笑んで見せた。
「リュート――――――――――ありがとう」
イゼル様は最後にそう言った。
二人の周りをヴァルーダの兵士達が取り囲む。
まるで連行されるように彼らに囲まれて、お二人は扉を入って行かれた。
行かせたくない。
追いかけて、腕の中に閉じ込めたかった。
だがどんなに足掻いても、二人はこの世界から出られない。この世界で道を切り開くしかなかった。
イゼル様は一度だけ振り返られた。
あの時の微笑みが胸の奥底に刻みつけられている。
◇
扉が閉じ、<蠍蜘蛛>とわたしだけが礼拝所に残った。
「後日会おう」と言い残して、<蠍蜘蛛>もすぐに消えた。
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