229. 獣人達と血に染まる暗闇
ドサリと重い音を立て体と頭が石の床に落ち、その上に、彼ら自身の血が降り注いだ。血溜まりは見る間に広がって池となり、祈りの間から溢れそうだった。
全身に血を浴びながら、身動きもせず、わたしはその場に留まった。
血に染まる暗闇。
正視に堪えないそのおぞましい光景をお二人に見せたくなかった。
もう何度も「記憶」に刻まれてきたことだ、こんなことは。
イゼル様と王子が叫んだりされることはなかった。声が出なかったのではないかと思う。振り返ってお二人を確認したかったが、目の前の獣人からわたしは目を逸らすことが出来なかった。
乏しい灯が照らす、黒々とした血溜まりの中に<蠍蜘蛛>がいた。
蜘蛛に近い見た目をしているが、蠍のような鋏と尾も持っている。
明るい場所であれば光を反射する筈のその瑠璃色の体は、血に覆われていた。
一瞬味方なのかと思い掛けたが、すぐに違うと思った。
殺されたヴァルーダ兵は四人だけだった。
<蠍蜘蛛>の周りには、まだ五人のヴァルーダ兵が残っていた。濃い色の服の上に、兜と鎖帷子。残った五人は、服装が同じだった。仲間が酷い殺され方をしたというのに、騒ぐ者は一人もなかった。
想像もしなかったことが起きていたが、彼らはおそらく味方ではない。何か内紛のような、彼らの側の事情があるのだ。
むせ返るような血の臭いの中で、わたしは意識の半分を背後に向けていた。
イゼル様と王子の息遣いは後ろに聞こえていた。
だがイゼル様がわたしと同じ結論に辿り着いて今にも「決断」してしまうのではないかと、気が気ではなかった。
味方ではないとしても、お二人の命を救う道が与えられる可能性はあった。この異常な事態の理由を知るべきだった。
と。
小さな音と共に<蠍蜘蛛>が消え、その体に乗っていた血がばしゃばしゃと纏めて落ちた。
一拍置いて現れた時には、<蠍蜘蛛>は人の姿だった。<蠍蜘蛛>は膝近くまである暗い色の髪と、瑠璃色の瞳を持つ男だった。
少なくとも、すぐに攻撃して来る気はないのだとそれで分かった。
獣人は、人の姿の時には十分に力を発揮出来ない。
特に、巨大な鋏や尾から発する糸を武器としている<蠍蜘蛛>のような獣人は、人の姿では持っている力の大半を使えない。
「我が主が、お主と話をすることを望んでいる」
「――――――――――――――――――――」
わたしと……?!わたしが彼らの目的なのか……?!
息を呑んだ。
<蠍蜘蛛>の言葉は、ヴァルーダ語でもパレタイル語でもなかった。
既に失われた国の、古い言葉。その場に彼の言葉を理解出来る人間はいなかっただろう。
仲間にすら目的を隠すよう命じられているのだと思った。
「彼の主」は、おそらくヴァルーダ王ではない。
そもそも<蠍蜘蛛>が戦場にいることからして珍しく、不自然だった。
人間の体くらいなら両断出来る鋏を持つ<蠍蜘蛛>だが、獣人同士が争う場では、強いとは言えない。
すぐには攻撃されないと確信したわたしは、彼に応える前に後ろを振り返った。
イゼル様とリル様は抱き合うように体を寄せ合っていた。
リル様をご自分の後ろに下げようとしたのだろう。イゼル様は王子の肩を掴んでいた。王子はだが、左腕で姉が自分の前に出るのを防ぎながら、右手に剣を構えて半身に立っていた。
姉弟はどちらも震えながら、互いを守ろうとしていた。
ただお二人が激しくショックを受けていたのは明らかで、何もして差し上げられないことが、苦しかった。
僅かにほっとしたのは、お二人がほとんど血を浴びずに済んでいたことだ。
だが美しく穏やかだった壁画が汚れていて、それが胸に重しを乗せられたかのように堪えた。
目の前の光景をこのお二人に見せたくないと、改めて思う。
わたしの白い体に付いた血は目立った。
血まみれの体をお二人に近付けたくなかったが、わたしは後ろ手にした左手で、お二人を押すような仕草をして見せた。気付いたリル様がはっと頷かれ、背中で姉を押しながら後退してくれた。
巨大な体でも、お二人の視界を完全に覆えていた訳ではないだろう。それでも人の姿よりは防壁として役に立っていた筈だ。
躊躇はあったが、やむを得なかった。
夫婦神の壁画に体が付くまでお二人が下がったのを見届けると、わたしは一度姿を消した。白い体を染めていた血が落ちて階段を濡らす。そしてわたしは人の姿でもう一度現れた。
そうしなければ、獣人はこの世界では言葉を交わせなかった。
血の池の上と下で、わたしと<蠍蜘蛛>は向き合った。
彼の周りを囲む五人の兵士は身構えてはいたが、終始無言で立っているだけだった。
「…………通路を塞いだのは、あなたですか?」
彼が使った言葉でわたしは尋ねた。
「………すまぬな」
<蠍蜘蛛>の糸が使われたのだろう。<蠍蜘蛛>の糸は強靭で、大量に張られると<人狼>ですら簡単には切断出来ない。
彼は少しだけ心苦しそうだった。人間の要望に応えているだけで、獣人同士には争う理由などなかった。
「何が望みですか」
知らない言葉で交わされる会話を、イゼル様はどんな気持ちで聴かれていただろう。それがヴァルーダ語でないことぐらいは、イゼル様はお分かりになっただろうと思う。
「パレタイルの王族の命と引き換えに―――――我が主はお主の力を欲している――――――<唄うたい>」
◇
「――――――――何をお望みですか」
<蠍蜘蛛>と<伝令鳥>を介して、わたしはその男と言葉を交わした。
読んで下さっている方、今日たまたま読んで下さった方、本当にありがとうございます。
ようやく、ようやくここまで辿り着きました…… f^^;)
本話は「134話 迫る時」の終盤部とリンクしています。
時系列がかなり分かりにくくなってしまいましたが、「134話 迫る時」の終盤部は、「44話 ヴァルーダの都」より前の出来事です。




