219. ある獣人とあるひと
ドオォォォォ………………ン…………!
重い地響きがして床が揺れる。
城壁ではなく城が崩されたのだ。
敵にここが見つかるのも時間の問題だろう。
「お願い!リルだけでも」
今にも涙が溢れそうな目で懸命に扉を押す女性を、わたしは切なく見つめていた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
パレタイル王国は小さな国だ。
国王が気軽に城外に出掛けては民と直接言葉を交わすような、牧歌的で、長閑な国だった。
野心など抱きようもない小国と言ってしまえばそれまでだが、王族も皆慎ましく、彼らが注力することと言えば国の安定と民の幸せ、といった国だった。
幸い気候にだけは恵まれていて、小さな国だったが、国民は貧しくはなかった。
獣人の「記憶」の中でも、こんな国はとても珍しい。
国家的な役には立ちそうもないわたしは獣人としては「外れ」だっただろうに、国王一家は、他の合いの子達と一緒に、わたしのことも大切に育てて下さった。
家族のように。
リュートと名付けられたわたしがようやく人の姿になったのは生まれてから四年後で、その同じ年にイゼル姫がお生まれになった。
姫のお世話を、わたしは出来るだけさせて貰った。
わたしに出来る恩返しは、とても少なかったから。
傍から見ると幼児が赤子の世話をしているように見えるのでそれが微笑ましかったらしく、わたしがイゼル様を抱いて歩いていると、城の女中達や衛士達が、いつもくすくすと笑っていた。
「イゼルのお世話をしてくれてありがとう。でもお外で遊んで来てもいいのよ?」
王妃様はわたしを気遣ってよくそんな風におっしゃって下さったが、でもわたしは、苦ではなかったのだ。
小さな姫は、とても可愛かった。
やがてわたしは、髪を背の中程の長さに切った。姫のお世話をする時に長い髪があまりに邪魔だったからで、それは少しだけ、ご恩返しにもなったと思う。
切られた後も何百年も美しさを保つ獣人の髪は、諸国の王族や貴族の間で、同じ量の金よりも高い値で取り引きされていた。髪は「成長」の時には伸びるので、その後わたしは、成長の度に髪を切った。
少し経つと、イゼル様ははいはいでわたしの後を追うようになった。よちよち歩きをし出してからも、イゼル様はわたしを追った。一緒に遊んでいる内に姫が疲れてぐずり出した時は、抱っこしてあやした。
時々イゼル様を腕に抱いて座り込んだまま一緒に寝てしまうことがあり、すると侍女達どころか王妃様までもが見学にやって来て、気が付くとわたし達は、くすくすと笑う女性達に遠巻きにされて見つめられていたりした。
わたし達は、兄と妹のように育った。
イゼル様が5歳の時に、パレタイル王国にとって待望の王子が生まれた。
イゼル姫が生まれるまでに王妃様は二度流産されていて、それから体調がなかなか快復されなかったこともあり、姫には、10歳以上年の離れた姉姫様が二人いるだけだった。
5歳の姫は、生まれたばかりの弟の世話をしたがった。
人間で言うと7歳くらいの見た目になっていたわたしは、今度は5歳の姫と一緒に、小さな王子の世話をした。
残念ながら、国王ご夫妻が五人目のお子様に恵まれることはなかった。
一番上の姫君が生まれてから長い月日が経っており、無理からぬことだったと思う。
イゼル様が10歳の頃に姉姫様達が相次いで嫁がれると、わたしとイゼル姫と小さな王子は、それからは、三人きょうだいのようだった。
王子がまだ幼かった頃は、わたし達は城の庭でよく鬼ごっこや隠れんぼをして遊んだ。
本気を出し過ぎても手を抜き過ぎても王子に泣かれるので、わたしとイゼル様はいつも加減に悩んだ。
イゼル様が12、3歳になる頃、子守りや古文書の解読以外でお役に立てることがほとんどなかったわたしにも、出来ることが少しだけ増えた。
わたしは、お二人の護衛を兼ねることになったのだ。
<人狼>のように戦闘向きの能力はなくとも、人の姿でない時は獣人は、巨大というだけで一般の人間に対しては十分に脅威になれる。
パレタイルは国王陛下すら少ない護衛で出掛けて行くような国だったが、わたしがいることで姫と王子には、更に簡単に外出の許可が出るようになった。
ただしわたしは、毎日ずっとお二人の傍にいる訳ではなかった。
お二人にもそしてわたしにも、学問とか仕事とか、それぞれにやらなければならないことがあり、ばらばらに行動している時間も長かった。
そんな頃に、わたしはイゼル様と喧嘩してしまったことがある。喧嘩の後わたしは、一人で城の外へと飛び出した。
姫も王子もちょうど学問の時間が始まるところだったので、お傍を離れても問題のないタイミングだったのだ。
後でよく考えてみると、わたしがいけなかったのだと思う。
喧嘩の原因は、姫がわたしの「成長するところを見たい」と言ったことだった。
わたしは「嫌です」と答えたが頭の中が咄嗟に整理出来なくて、なぜ嫌なのか、自分でもよく分からなかった。
諦めない姫にただ頑なに「嫌です」と繰り返してしまって、最後には、お互いに頬を紅潮させて睨み合った。
乱暴な足取りで城下町を歩きながら、その時になってもまだわたしは、何が嫌だったのかよく分からなかった。
イゼル様とあそこまでの言い合いをしたのは初めてだったかもしれない。
人間の17歳より幼く見えたが、その時わたしの年齢はそれくらいだった。
大人げなかった、とは思っていて、口論による昂ぶりは、次第に自己嫌悪に置き換わった。
多分、情けない顔をしていたのだと思う。
「リュート!」と、幼い声に呼ばれて顔を上げると、そこは菓子屋の前だった。
「あら!今日は一人なの?」
五つくらいの子供の手を引く女性に、快活に言われた。




