218. 獣人とひと
ゆっくりと「記憶」が流れてくる。
顔を上げると、若い人間と瞳があった。
黒い瞳。
珍しいな。
合いの子の獣人が最初に会う人間は、もっと年いってることが多いのに。
くすぐったくなる。
この温もりを知っている。
とても優しくて、寂しくて、でもとても強い。
ずっと自分を温めてくれていたのは、この人間だ。
意識と体が、ひとつひとつ接続していく。
手も尻尾も脚もちゃんと動いたぞ。あとは羽だな。
ぱた、ぱたぱたぱた――――――――ふらふらと飛び上がり―――――――
ぽてんと落ちた。
うむう………もう一回だ。
人間の右手の中で、もぞもぞと体勢を立て直す。
人間がもう片方の手も添えてくれた。
受け止めてくれるのか?
うむっ、助力感謝する!
ぱたたたた…………
ふわっ。
今度は飛べた。
黒髪の人間が目を見開いて驚いている。
まあ竜だからな!
朝陽が差して、世界は光に満ちていた。
地面より少し高い場所に、温かな人間が立っている。
木の板の上に藁が積まれていて、下には何か、人間以外の動物がいた。少し臭いがきつい。
変わった場所に住んでいるなと思ったが、初めて見る世界が楽しくて、気にならなかった。嗅覚は絞っておこう。
ぱたぱたぱた………がくんっ、ぱたたぱた………
楽しい!!
でもまだ上手く飛べないな。
しばらくして、優しくて温かい人間の横に降りる。遊んでほしくて人間をつついていたら、何か話し掛けられた。
「記憶」はゆっくりと開かれている最中で、まだ何を言われたのか分からない。
獣人の世界には、人間のような言葉はない。思考を直接やり取り出来る。
でもこちらの世界では獣人同士でも人語でやり取りするので、言葉の「記憶」は必須だ。だから言葉の「記憶」は濃いし、獲得も早い。
「じっとしてるんだよ。」
小屋を出る頃には、自分がヤナ語で話し掛けられていると分かった。
うむ、もうなんて言われたのか分かったぞ!
凄いだろう!
獣人の記憶は広い海のようで、でもまだ掌握しきれない。
ゆっくりと流れてくる記憶の中に、母の個人的な記憶が、少しだけ混ざり込んだ。
ヤナ語――――――――――――――
わたしはヤマタに預けられたんじゃなかったか。
何かあったようだが、まあいいか。
話し掛ける声や言葉。そっと触れる手。
くすぐったい。
よかった、わたしをかえしてくれたのがこの人間で。
空気はひんやりとしていた。緑が広がっていて、鳥達が鳴いている。
初めての外。
初めてのごはん。
楽しい。
黒髪の人間はとても優しい。
うん?なんだ?何かあったのか?
人間がわたしをじっと見つめている。
「……ごめんね。」
ばたばたばた。
「痛たたたたたた…………ごめんて。」
なぜ引っ繰り返す、無礼者!
ꔰ ꔰ ꔰ
「夕方に戻って来る。ここで待っててくれる?」
うぬ?
これから人間の世界のことを教えてくれるんじゃないのか?それに一緒に遊びたい。
がちゃんっ!
嘘だろう?!置いて行くのか?!赤ちゃんだぞ?!
そりゃ人間の赤子よりは丈夫だが。
「夕方」って、まさか夕方まで放置するのか?!
酷過ぎる。こんな目に遭う合いの子がいるか?!
「静かにして、ここで待ってて。」
しばらく必死で扉をつついたが、扉が開くことはなかった。
最悪な時間の始まりだった。
干し草が積まれているだけの部屋。何もないし、誰もいない。腹は立ったが、今のわたしは鳥の雛と変わらないくらいに無力だ。身の安全を考えれば、ここにいるしかない。
くそう。
「記憶」の中でも例がないくらい酷い扱いだったが、現状、どうすることも出来ない。
黒髪の人間は、何か事情を抱えているのだとは思う。
獣人の感覚は人間よりずっと鋭敏で、竜はその中でも更に鋭敏だ。
人間が見ることも感じることも出来ない、空気中の微細な粒子を感知する。
空気中の粒子はそこに物があるだけでも、生物の感情が動くだけでも動く。竜は、瞳でも耳でも皮膚でもその動きを拾う。
「ある程度は」の話だが、生物の感情は言葉がなくても分かるし、死角にある物でも見える。条件が良ければ、竜なら、皮膚で知覚した情報を視覚に変換することすらある。
だから生まれる少し前から、あの人間のことがぼんやりと見えてはいたし、心も伝わっていた。
今わたしを置いて出て行った時の気持ちも。
わたしがここにいることを知られると、あの人間にとってはまずいのだろう。
肌でそう理解した。
少しして外から人間の声が聞こえたが、わたしは自分の存在を知らせることはしなかった。
ヴァルーダ語だな―――――――――――――一体わたしはどこにいるんだ。
まあいい。
今日だけだ。まだ事情が分からないから、今日だけは隠れててやる。
でもこれはあんまり酷いぞっ!!
一人きりの一日をそれからわたしは飛ぶ練習をして過ごし、疲れると干し草の上で休んだ。これはこれで有意義だな?
日が傾き始めた頃に、一度鎖の音が聞こえた。
「迎え」か?
あの人間だと分かる。でも鎖の音は、近付いてこなかった。
まだわたしに隠れていてほしいのだ。
びりびりとした緊張が空気を伝わってくる。
何か余程の事情があるのだな。
――――――――――――今日だけだぞ、人間。
その時もわたしは、気配を消して過ごした。
ꔰ ꔰ ꔰ
もう陽が落ちるという頃。
ようやく人間は戻って来た。
「―――――――――――戻って来たよ。」
呼び掛けられたが、わたしは出て行かなかった。
「ねえ、帰って来たよ。」
都合がいいぞ人間。
生まれたばかりの赤子を一人にして一日閉じ込めるとは。
獣人によっては命を危うくしていたかもしれない。
お前は保護者に値しない。
積まれた草の中に隠れ、わたしは肌で様子を探っていた。
人間は、なぜかぼろぼろになっていた。今にも崩れ落ちそうに疲れ切っている。
だが人間は、草の山を登り始めた。
草が崩れては落ち、また登り、また崩れる。
何度も何度も。
―――――――――――――――――――わたしを捜している。
ぱたぱた……………。
羽ばたいた。
山の上に、わたしは降りた。
草の山の頂上から、直に人間を見つめる。
山から滑り落ち、人間はそこに座り込んだ。両頬が赤黒く腫れている。なぜか朝とは違う服を着ていた。
「……っ……ぅ……」
わたしが無事だと知り、人間は泣いていた。
「……っ……ぅ……っ……」
ぱた。
ぱたぱたぱた…………
差し出された手の上に降りる。
何か余程の事情があるんだな。
自分を包む掌に頭を擦りつける。
ずっと知っていた温もりだ。
「あ…………」
声を殺して泣く人間に抱き締められた。
とても優しくて寂しくて、とても強い。
ꔰ ꔰ ꔰ ꔰ ꔰ
ナギ以外の人間なんて、実際どうでもよかった。
でも母の記憶の中にしかいない父もナギも人間なのに。
口にしてはいけないことを口にしてしまった。
大好きなナギに「獣人とひとは違う」と、自分で言ってしまった――――――――
元には戻れない。言ってしまった言葉はなかったことには出来ない。きっとあの朝のことは、ずっとしこりとなって残るのだと思う。ナギの顔が、まともに見られない。
でもその日、ナギが「誕生祝い」をしてくれた。
どんぐりの的入れを始めたら夢中になって、いつの間にか笑っていた。
わたしは半分怒っていたが、ナギはずっと笑っていて、気が付くと、あの日の以前みたいに自然に話していた。
なかったことにしよう。
そういうことなのか?
そうだな。それでいいのかもしれない。
肌の下に痛みが残るとしても、表面の傷が消えれば目には見えない。
でもわたしの誕生日を祝いながら、ナギは傷も痛みも消してくれた。
「――――――――ラスタ。ラスタが人間のことを好きじゃなくても、僕のことも好きじゃなくなっても別にいいんだ。僕がラスタを好きな気持ちは、ずっと変わらないから。大丈夫。」
そう言ってナギは優しく微笑ってくれて、全部の傷が癒えていった。
この先獣人とひとがどうなったとしても、わたしはナギを好きだと思う。
第三章 終




