216. 奴隷の交渉
温度がない瞳をした女性。
他に人がいない前庭で、奴隷の少年と黒い服の女は向かい合った。
アメルダが何を知っているのか分からない以上、下手なことは言えない。
ナギは最小の言葉を選んだ。
「……何が望みですか。」
言葉は最小限だったが、奇をてらったことを言ったつもりもない。
だが女中は、予想外の反応を見せた。
薄茶色の瞳から、ふいに冷気が消えた。
冷温すら失った女中の表情は「無」としか表現しようがなかったが、その変化が、感情が見えない女中の揺らぎを告げていた。
虚を突かれた――――――――――――――そんな表情だった。
なぜ?
こっちが交渉に臨むのを、待ってた筈じゃないのか。
困惑するナギを、次には驚きが襲った。
宙を見つめて、女中がフッ、と微笑ったのだ。
「なんでしょうね。」
今までで一番人間らしい表情をして、黒い服の女はそう言った。
驚愕した。それくらい、この女中から人間らしさを感じたことがなかった。同時にナギは、違和感も微かに持った。
アメルダの腹心に見えていた黒い服の女が、アメルダを突き放しているように思えたのだ。
ほんの一瞬のことだった。ナギに視線が帰った時には、女中の瞳にはもう冷気が戻っていた。
「―――――――――――――――」
まさか質問で返されるとは思っておらず、用意がなかった。
どう応えればいい?
自分の言葉を引き出して、手の内を探ろうとしているのかもしれない。
手の内を幾らかは明かさないと、向こうも手の内を見せてはくれないか
―――――――――――――――
ナギが決断に迷った数瞬に、先に口を開いたのは、だが女中の方だった。
「アメルダ様に協力した方が、あなたの望みも叶うのでは?」
息を飲む。
本気なのか。
本当にあれが、アメルダの望みなのか。
本気でこの巨大な国を乗っ取ろうと。
ラスタを使って………?
それが本当に唯一の要求ならば、交渉は出来ない。
そもそもこの二人は、本当にラスタの存在を知っているんだろうか。
ただ女中の言葉の半分は、ナイフのように静かに、深く、ナギの心に切り込んでいた。
自分の望み―――――――――――――――――――――
故郷と、仲間達と、ミル。
口が渇いた。
言葉のない数秒の後、初めてナギは踏み込んだ。
「………なぜミルを。」
館の人間達でさえ詳細を知らないらしい事件のことをナギが知っているのは、本来おかしいのかもしれない。黒い服の女は少しだけ訝しむようにナギを見たが、問い質すことはしなかった。だが少年の疑問に直截に答えることもしなかった。
「……あなたが協力すると言うのなら、あの娘には手を出さぬようアメルダ様に申し上げましょう。」
「―――――――――――――」
答えになっていない、と思った。
でも自分が上手く交渉出来れば、ミルの危険を減らせる……?
だけどアメルダの本心を掴まなければ、そんな交渉は無理だ。
時間が足りな過ぎた。そろそろ畑の監督役も昼食のために引き揚げて来る。
「……一度考えさせて下さい。」
「……いいでしょう。」
何を知っているのか。
はっきりと訊きたい気持ちを堪えて、短かった交渉をナギは打ち切った。
歩き出した奴隷の少年の背中を、掠れた声が追い掛けた。
「必要なら、夜に小屋に行きましょう。」
―――――――――――夜?
鍵が掛かっているのに。
振り返ると、胸の高さに布包みを持つ女中は、ぞっとする程冷たい瞳をしていた。
「最近村の店には精霊が買い物に来るそうですよ。」
「………!」
表情に出すまいとしたが全身が凍り付き、ナギは数瞬、その場を動けなかった。
◇ ◇ ◇
ヘルネスが領内から搔き集めさせた物資を積んだ幌馬車が、館を出発したのは翌日の朝だった。
「後から追加の支援を送ろう」
そう言って、ヘルネスは使者の男を見送った。
嘘を言ったつもりもないが、こんな事態だ。約束が果たせない状況となる可能性はある。積極的に動かないなら、その可能性は一層高くなるだろう。
そうなった場合は不可抗力だ。
一応の誠意は見せたのだから恨みは買うまいと、保身に満ち満ちた計算をしていた。
マッカと老母に前後を挟まれるようにして、ヘルネスは寝室の奥の小部屋を出た。
「これからどうなるんだい。」
老母の非難がましい声を渋面で聞き流していた時、扉を叩く音がした。
やって来たのはハンネスだった。家の代表として、出立する使者の見送りをさせていたのだ。「使者が無事に発った」と報告に来たのだった。
取り敢えずの区切りを迎えた一家に、どっと疲れが押し寄せた。だがこの先にやって来るのは、更に酷い混乱だろう。
ただ王都が動き出す前に、地方領主が出来ることは多くない。
「どこへ行く。」
すぐに立ち去ろうとする跡取り息子を、ヘルネスはソファから呼び止めた。
「湿布を替えに行きます。」
呑気な。
そうは思ったが、やはり今何が出来ると言うものでもない。引き止める理由はなかった。
息子が去った後、ヘルネスはそのまま身を投げ出すようにしてソファに座っていたが、それ程時間が経たない内に、扉は再度叩かれた。
今度の訪問者は、いつものお付き女中を連れたアメルダだった。
「お時間頂けるかしら。」
相変わらず笑顔一つ見せずに、息子の新妻はそう言った。




