212. 「ただいま」
「竜巻だと……?」
その話は、トラム・ロウから離れている自領が洪水に巻き込まれることはないと、どこかで安心していたブワイエ家の主従に衝撃をもたらした。
あの雲が他国の獣人による攻撃なのだとして、水害の規模があまりに巨大であった故に、攻撃範囲がさらに拡大することはないだろうと何か甘く考えていた部分があったのだ。
内陸の深い場所への攻撃を、ヴァルーダが経験したことがなかったせいもある。
「我が領地に大きな被害はなかったのですが、水没した領地と竜巻に遭った領地から着の身着のままの被災者が押し寄せているのです。」
ヴァルーダは危機的な状況に陥っているのではないか。
初老の使者により西方の惨状が語られるに連れ、ブワイエ家の主従の顔は青ざめて行った。
――――――――何千という被災者が次々と押し寄せて来るが、寝る場所は疎か、食料も衣料も足りない。ほぼ全員が怪我をしているが、包帯も薬も足りない。辿り着いてすぐに息絶えてしまう者も大勢いるが、埋葬する場所どころか、そのための人手も足りない――――――――遂には略奪行為が起きて、領民と避難民との間で殺し合いが起きた――――――――
苦境を語る使者の顔には、濃い疲労の色が滲んでいた。
「王都にも早馬を向かわせておりますが、支援が来るまで到底持ち堪えられません。収穫前の畑の世話すら出来ぬ状況です。何卒可能な限りの物資と、出来れば人もお貸し頂きたい。」
懇願する使者に、ヘルネスは即答出来なかった。
無碍には出来ないが、大量の物資などすぐに揃えられるものではない。いや、十分な準備期間があったとしても、正直、今のブワイエ家にそんな余裕はなかった。
「食糧不足になるんじゃねぇか……?」
その時、誰もわざわざ口に出さなかったことを掠れ声でハンネスが呟き、応接室を重苦しい空気が包んだ。
ブワイエ領を含め、ヴァルーダの中北部は国の穀倉地帯である。その多くが、収穫前に失われたと思われた。
これは戦どころではないかもしれぬ。
直接的な被害の外側でも、老母の生家と同じことが起きているだろう。
あまりに甚大な被害だ。
養育係は無言を保っていたが、体と額にはじわりと汗が浮かんだ。
国の痛手となった被害は、だがこれだけではなかった。
最初に水害の被害に遭ったレイドン領へ向かっていた王都からの救援部隊が竜巻に巻き込まれて全滅していたのだが、彼らがそれを知ることはなかった。
両家の話し合いはそれからしばらく続いたが、やがて「昼食を運ばせよう」と言って、ヘルネスは話を中断した。半分は、家中だけで話し合う時間を取るための口実だった。
「食事どころでは」と追い縋る使者を振り切るようにして、館の主従は部屋を出た。
応接室の外に出ると廊下の右奥にも左奥にも使用人が数人ずつ固まっていて、不安気にこちらの様子を窺っていた。
「場所を変えよう――――母上は部屋へお戻り下さい。」
階段の方へと歩き出しながらヘルネスがそう告げると、手形の署名を確認するために同席していた老母は血相を変え、息子に詰め寄った。
「ブワイエ領は大丈夫なんだろうね?!」
息子と孫息子がぐっと言葉を詰まらせ、孫息子の養育係が沈鬱な表情で視線を下げる。今日死んでもおかしくなさそうな年齢の男だけが、無表情だった。
誰にもそんな保証は出来ない。
この災害が国王自らによる指示という可能性はまだ残ってはいたものの、これが王の指示なら、国王の頭は正常ではないだろう。
「そろそろ王都でも動きがあるでしょう。」
ヘルネスが母を宥めた言葉には、願望が混ざっていた。
物品の売り渋りや買い占めが起きる前にと、ヘルネスは既に密かに物の確保に動いていたのだが、もうそれで安心出来る状況ではなかった。直に領民にも大洪水の噂が届き出し、事態はこれから更に悪くなるだろう。
そこに料理を載せたワゴンを押す女中が現れ、老母の目がそちらに向いた。
まだ使者に昼食を出す指示はしていない。
怪訝に思ったが、二人分の木製の食器に注がれた煮物や色の濃いパンを見て、使者のための料理ではないとすぐに分かった。
食糧不足の懸念に襲われていたタイミングだ。
老母は激高した。
「あの奴隷をいつまで部屋に置いているんだい!?働けない奴隷など始末しておしまいッ!!」
老婆がそう怒鳴った瞬間、サッとハンネスの顔色が変わった。咄嗟に表情が強張ったのは、だがハンネスだけではなかった。自分自身の思わぬ反応に動揺したのは、白髪の養育係だった。
「もうすぐ地下牢に戻しますよ。」
渋面を作ってそう応えると、ヘルネスは手を振って、立ち止まってしまった茶髪の女中に「さっさと行け」と合図した。
その横で跡継ぎ息子と養育係が小さく息を吐いたことに、誰も気が付かなかった。
◇
ワゴンを押して北棟へと廊下を折れた女中は、突き当りのアイロン室の扉がちょうど閉まったのを見た。
誰かが中へと入って行った。
ちらりと見えたスカートの染めは黒々としていて、「若奥様のお付き女中だ」と思った。
「盗み聞きでもしていたのかしら。気味が悪い……」
◇ ◇ ◇
その日は沐浴の日だった。
見張りの男に奇異に思われない程度に、ナギは出来るだけ急いで身体と服を洗った。
服を替えなければいけないので、ねじは夕方の乳搾りの時に小屋に置いて来ている。
館の中ならねじに代わる物が一杯あるとは思うものの、ハンネスと出くわさずに一日が終わろうとしていることは有り難かった。
ハンネスの姿が見えないのは、多分馬で来たあの男が関係している。
あの男はなんなんだろう。
気にはなったが、それを知る術はない。そして今は心の余裕もなかった。
夕闇の中、ランタンを掲げて牛小屋へと道を戻る時、気持ちが急いて仕方がなかった。後ろを付いて来る鍵当番を殴り倒して走り出したいと思うのに、それが叶わない。
逸る気持ちを少年は懸命に抑え込んだ。
いつもよりずっと長く感じた道のりを歩いて小屋に着き、少年は軋む扉を閉めた。
昨日と同じ牛小屋の景色。強烈な臭い。錠が掛けられるガチャガチャという音。
ナギは宙を探していた。もうそこにいるのかもしれないのに、気配すら感じ取れないことが、心底もどかしい。
ラスタが危険に遭う可能性は相当に低いと分かっているが、万一ラスタが戻らなかったらと、全く考えずにいられた訳ではない。心臓が激しく打っている。
鍵当番の足音がなかなか遠ざからなくて苛々した。
ラスタ――――――――――――――――――――――?
ぽんっ。
小さな音がした時、神様、と心の中で叫んでいた。
金色の髪が翻り、腕と胸に竜人少女の重量が降って来る。
「ナギ!!」
ぎゅうっと肩に廻された小さな腕の力がいつもより強い。
少女の背中に廻したナギの腕の力も、いつもよりずっと強かった。
「ただいま」
最初に、ナギの方からそう告げた。
 




