211. 西からの使者
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
目が覚めた時、布団の藁や床板が見えて、少しだけ混乱した。
ラスタは――――――――――――――――――――
体を起こしてから明かりを灯したまま寝たことや、ラスタが留守にしていることを思い出す。
ほんの半瞬、記憶が繋がるのに時間が掛かったせいで、喪失感が昨日の夜より大きくなった。
時間は―――――――――――――――――――――
窓を見上げる。いつもようやく物が見え出すくらいの時間に自然に目が覚めたが、今日は明かりがあるために、今がその時間なのか判り難かった。
小さな窓の向こうの闇は、僅かに薄まっていた。
牛達が静かに蠢く気配がしていて、空気を切り裂くような鶏の声が聞こえている。
朝だ、と思った。
「――――――――――――」
牛小屋の中を見回す。
黒竜は本当はもう、「隣の領地くらいなら半日で行って帰って来られる」くらいに速いらしかった。
だが二人は敢えて「一泊の旅程」を選んだ。
ラスタのごはんや寝る場所を、考え通りに確保出来るかも確かめなければならないと思ったからだ。
小さな少女が姿を現すことはなかった。
分かっていたのに、寂しさが体に圧し掛かる。
自分がラスタの留守に慣れる練習の方が大変そうだと思う。
ラスタと再会できるのは今日の夜だ。
今日一日、自分は絶対に生き延びなければいけない。
ガチャッ。
それからしばらくして、鍵の開く音がした。
◇ ◇ ◇
昨日の馬達はみんなブワイエ家の厩舎に留め置かれていて、ナギが朝食を食べ終える頃には前庭に並べられていた。
狩りは今日も行われるらしい。
夕方に館に戻る時間がまた被るかもしれない。
少年は不安に思いながら畑仕事に加わったが、その不安は予想外のことで解消された。
蹄の音に顔を上げると、村からの道を駆けて来る騎馬が見えて畑の村人達は騒めいた。
村の人間じゃない、とナギにも分かった。
枯葉色のマントを纏い、鞄や鍋を鞍に吊るした男は、明らかに旅装だった。
茶色の服……
初老の男は、焦げ茶色の上衣に黒いズボン姿だった。多分ゴルチエ家の人間でもない。
西から来たのかもしれない。
麦畑の中で、ナギだけがそう思った。男の服が、かなり汚れて見えたからだ。
やがて狩りに出発した一行の中にサドラスの姿はあったが、ハンネスとクライヴの姿はなかった。
◇ ◇ ◇
ナギが想像した通り、騎馬は西から来ていた。
ハンネスが使者を寄越した家の名を告げると、父親は顔色を変えた。
「なんだと!」
父親の声に滲んだ苛立ちは予想を上回っていて、息子を鼻白ませた。
婚儀にあんなに注ぎ込むからだ。
見たことか、とハンネスは今更ながらに怒りを覚えた。
突然の使者の来訪に狩りを断念したハンネスとクライヴが館へ戻ると、ヘルネスは執務室ではなく自室にいて、マッカと何やら話し合っている最中だった。
金の話だろう。
アメルダとの婚礼に家を傾けかねない程の財を掛けてしまったブワイエ家の台所事情は、今かなり苦しい。そこに来て戦が起きて、出兵を求められるかもしれないのだ。そうなればまた金が掛かる。
「応接室に通しましたが。」
息子の言葉に、ヘルネスは苦虫を嚙み潰したような表情で立ち上がった。
結局全員で廊下に出た。
こんなことになっているのもあの女のせいだ。
四人で歩き出した時、領主の息子は憎々し気に新妻の部屋の方を睨んでいた。
「もう一つの王家」と言われている家から迎えた花嫁。
その機嫌を取るために費やされた巨額の費用も、実を結んでいればまだよかっただろう。
だが婚儀からひと月以上が経っても、新婚夫婦は閨を共にしていない。
「家と自分の将来が懸かっている」と、訳ありとしか思えない婚約に疑念を抱いてもそれを呑み込み、あの時まではハンネスは、かつて発揮したことがない程の忍耐力を発揮してアメルダの侮辱的な振る舞いにも耐えていた。
しかしそれまで愛想笑いの一つも見せなかったアメルダが満座の中で、よりにもよって奴隷に微笑んだことが、ハンネスのプライドを決定的に傷付けてしまっていた。
家も跡継ぎも知ったことか!
もともと我慢の利く性格ではない。「最終的には自分が困る」と分かっていても、感情は理屈に従えなかった。
新妻の部屋を訪ねたとして、あのアメルダが快く自分を迎えるとは思えない。
無理矢理ねじ伏せては今後の関係に支障が出るだろう。だがアメルダに対して下手に出るなど、ハンネスには最早耐えられることではなかった。
◇ ◇ ◇
領主とその母と息子は、大きな机を挟んで初老の使者と向かい合った。一家の両脇には老臣二人が控えていて、室内の平均年齢はかなり高目だ。
ヘルネスと老母は、先ず使者が携えて来た署名入りの手形を確認した。
使者を寄越したのは、ヘルネスの母の生家だった。
老母の生家も領主であった。と言っても先方は代替わりが進んでいて、今の領主は母にとっては甥の子、ヘルネスにとっては従兄弟の子で、最早近い関係とは言えない。
それでも今日まで、老母を介して細々とした関係は保っていた。
血の繋がりは、貴族にとって安全保障だからだ。
いざという時に頼れる最後の頼みの綱が血縁で、そのために皆政略結婚を重ねて、網の目のように血縁関係を張り巡らせているのだ。
但し相互扶助の関係だから、助けを求めることもあれば、当然求められることもある。
「火急の用」だと言う使者は、汚れた身なりを改めもせずに向かいに座っていた。
老母の実家はブワイエ領より西にはあったが、トラム・ロウに近いと言う程ではなく、水害には巻き込まれていない筈だった。だがこんな時に西から来た急使が、いい知らせを伝えに来た筈もない。
広範の領地が水に沈んだ後、その周囲の領地を竜巻が襲った。
使者が語ったのは、西方の悲惨な状況だった。




