210. 一人の夜(2)
◇ ◇ ◇
ガチャリと鍵が閉まる音が聞こえた時、ほっとした。
生きて夜を迎えられたと思った。
少しして裏口の鍵も閉められる音がして、鍵当番の足音が遠ざかって行く。
ぼんやりと小屋を照らすランタンを床に置いたまま、ナギはしばらくそこを動かなかった――――――――――いや、動けなかった。
何か問題が起きて、ラスタが帰って来ているかもしれない。
つい身構えて、宙を探してしまった。
だが小さな少女が姿を現すことはなかった。
「……」
いないと思ったのに、手が宙に伸びていた。
自分に呆れる。
腕と手に重さが降ってくることはなく、無駄に喪失感を覚えた。
他の獣人と遭遇しない限り、ラスタが危険に遭う可能性は低い。竜人少女が戻って来ていないなら、順調なのだと思う。
―――――――――――――慣れないと。
自分に言い聞かせる。
次の時には、多分ラスタにゴルチエ領まで行って貰うことになる。その時にはラスタは、一週間は不在になる筈だった。
「――――――――――――――――――」
床から朱い灯を手に取ると、少年は小屋を仕切る柵の前まで歩いた。数頭の牛が暗がりからちらりとナギを見る。
光輝くような笑顔と声が、牛小屋の中にない。
竜人少女の不在を、牛達はどう思っているのだろう。
「……いないよ。」
そう告げると、一頭が返事をするように静かに鳴いた。
収穫の時期が近付いていて畑仕事が日に日にきつくなっているせいもあったが、「部屋」に上がると、疲れがどっと体に押し寄せた。
でもまだすることがある。
ナギは藁布団をどけて、ズボンのポケットから小さなねじを取り出した。
鉄の輪からラスタが外してくれたねじを、足枷を分解するための道具として隠し持っていたのだ。
この服を初めて着た時、ズボンにポケットがあったことはナギを驚かせた。
四年の間にナギに与えられた服のポケットは、必ず底が切り取られていたからだ。
その手間はしかし服が古着だったから必要だったのであって、新品で与えられたこの服は、ポケットを付けずに仕立てることも出来たのではないかと思う。
だが館の人間達は、危険を見逃さなかった。ヴァルーダ人は奴隷を支配するための経験を蓄積していると何度も感じたことがある。紺と金の服を初めて洗って次に着た時には、この服のポケットの底ももう切られていた。
とは言えポケットの布地自体はいつも残されていたから、底を縛れば短時間、軽い物を入れておくくらいのことは――――――――森から牛小屋までどんぐりを運ぶ程度のことは出来るのだ。
今日一日ねじをポケットに忍ばせていたが、先が尖っていてこのまま寝るのは少し危ないと思う。
でもこれだけ小さな物なら、隠す場所がある。
宝石のような竜の卵を、三年間隠し通した場所だ。
「―――――――――――――――――――」
今は見えているのに、手を伸ばすとナギは、床板の溝を指で辿り、小さな裂け目まで溝をなぞった。
闇の中で、いつもこうして竜の卵を探し当てていた―――――――――――
千年――――――――――――――――――――――
千年の間、忘れられていた宝石。
獣人の、特に竜人の卵は、剥き出しのまま放置されていても、滅多なことでは死なないと言う。ただ生まれる時期が近付いた時には温めないと、卵はいつまでもかえることが出来ないのだと小さな竜人は教えてくれた。
偶然にもナギが藁布団の下に卵を隠していたことで、あの冬の朝、竜人少女はこの世界に生まれることになったのだ。
ラスタが生まれた日。そして宝石のような卵に出会った日。
「奇跡みたいだな……」
指が触れている場所を見つめて、思わず呟いた。
遥か昔、ラスタのお母さんが卵を託した国。
古代の遺跡のようだったあの場所が、その国の王城だったのかもしれない。
何があったのかは、もう分からない。
その国は歴史から消え、卵だったラスタを閉じ込めたまま、建物は崩落した。
おそらく長い年月を経て、建物の崩壊は少しずつ進んだのだと思う。
小さな卵がようやく地上に姿を現した時、その宝石を最初に見つけて、手を伸ばしたのが自分だった――――――――――――――――――――
「王家や大きな貴族に託されることで、獣人達も助かっている」、とラスタは言った。
かえるまでに時には数百年掛かることもある獣人の卵を、国や大きな貴族なら、守り伝えられる可能性が高いからだと。
その見返りが「恩返し」なのだ。
余程のことでもない限り、獣人達はその約束を違えない。
もちろん恩義もあるが、それだけじゃなかった。
合いの子の獣人達はそうすることで、次の世代の合いの子達を守っていた。
十分な見返りがあるからこそ、人間の権力者達は合いの子の卵を管理するのだ。
「…………」
竜の卵を託された国は、だが千年を持ち堪えることが出来なかった。
宝石のような卵と自分は、そうして出会った。
ラスタをこんな場所で育ててしまった。
その罪悪感は、ナギをずっと苛んでいる。
だが同時に、もしラスタがヴァルーダ人の手に渡っていたらと考えると、体が汗ばむ程に胸が苦しくなった。
あの日小さな卵だったラスタと自分が出会ったことで、世界の運命は変わってしまったのだと思う。
少年は無言で作業を終えると、藁を元の場所に戻した。
今日は灯りを付けたまま寝ることにしている。夜中に何かがあった時、視界がなければ動けない。
アメルダは恐ろしい存在だったが、明かりが使えるようにしてくれたことだけは、助かっていた。
服を一枚脱いで畳み、藁の中に入る。
足枷を着けたまま寝るのも久しぶりで、鉄の重さや鎖に藁が絡む感覚は、やっぱり辛かった。
ラスタ――――――――――――――――
寝る場所はちゃんと確保出来た?
輪郭が辛うじて分かるだけの梁を見つめて、心の中で尋ねる。
「物を透かして見る時と同じで、姿を消す時もそう意識した時しか消せない」、と少女は言っていた。意識の一部が常に起きているとは言っても、寝ている時に姿を消すのは、ラスタであっても難しいらしい。だからラスタにも、夜を過ごす場所は必要だった。
今どこにいるだろう。
疲れているのに寝付けない。
腕の中に竜がいなくて、腕より心に穴が開いたように感じる。
ラスタはちゃんと眠れているだろうか。
「お空で お星さま 眠って……」
無意識に小さな少女のために口ずさんで、気が付いて口を噤んだ。
目が覚めちゃいそうだな。
そう思って、苦笑した。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
次々と届き出した報せに、ヴァルーダの王城はパニックに陥っていた。
「スカルにハリークに、トルネー領もだと……領主まで行方知れずとは……」
「どこからの攻撃なのだ!」
「とにかく一刻も早く敵を突き止めて、同時進行で被害を受けた領地に救援を向かわせなければ」
会議卓の周りに集まった文官も武官も、被害のあまりの大きさに青ざめていた。
「被害の規模が異常で……師団規模の人手と、数億ガルダ規模の資金とが必要になるかと」
「獣人を派遣せよ!!」
上座で腰を浮かし、グスタフが喚いた。
「お待ちください、陛下!」
初老の将軍が、低い声を上げた。
「昨年の戦で獣人の数が減っています。救援と復興に獣人を使い過ぎると、戦に耐えられなくなります。」
「獣人を使うなと申すのか。」
数瞬の沈黙。
やがて将軍が重い口を開いた。
「―――――――……スーレイン様を………」
「―――――――――――――――――――」
この国の王が息を飲んだ。
会議室が静まり返る。
数拍を置いて、国の重臣たちは君主の絶望的な言葉を聞いた。
「―――――――――――――――――――――――――ならぬッ!!」
◇ ◇ ◇
「お主まだおったのか。一体どこで寝ている。」
廊下で振り返ったスーレインは、あきれ顔で人狼に尋ねた。
「空き部屋は一杯あるからな。」
「いい加減見つかって摘まみ出されるぞ。」
涼しい顔で笑う人狼に苦言を呈す。
獣人達が目を瞑ってくれているからいいようなものの、去った筈の獣人が王宮内を勝手にうろついているのは、さすがにまずい。
だが人狼は気にする様子も見せなかった。そして黒髪の獣人は、まだ公になっていない筈の事件のことを口にした。
「中北部で何かあったらしいな。」
「―――――――――――――河が氾濫したようだ。」
そう応えた青紫の瞳が、少しだけ曇った。




