206. 「『行ってきます』だ」
狩りの合間に今日一日ラスタにアメルダの様子を探って貰ったが、花嫁のことで特に分かることはなかった。
起きるかもしれない戦争のこと、得体の知れない花嫁のこと。必死に考えてみたが、どんなに考えても何も見通せないまま今日が終わり―――――――――最終的にナギは、自分が知っている限りの世界の中で進む方角を定めた。
「やっぱり、ガルフォンを見付け出したい。」
闇が迫り出す「部屋」で、小さな竜人が目を瞠る。
牛が一頭、微かな声で鳴くのが聞こえた。
手放しで賛同して貰えるとは思っていなかった。
だがラスタの拒絶の明瞭さは、ナギの想定を上回っていた。
「……嫌だ。」
「……!」
ぺたんと座った竜人少女が左へ目を逸らし、床を見つめる。
応える言葉がないナギが沈黙すると、小さな少女の瞳がこちらを向いた。
「火の民とヴァルーダの間で戦になったら、十三人を見付け出してヤナに帰れると思えない。」
分かってはいる。
怒り顔のラスタの目から涙が溢れそうになっているのを見た時、ナギは胸に刺されるような痛みを感じた。
「状況が以前と違う。あの息子と花嫁が何をするか分からないのに、ナギの傍を離れるのは嫌だ。」
「――――――――――――――――――――――」
「『ナギの大切な奴はわたしも大切にしてやる』って言った―――……。でもわたしが一番大切なのはナギだっ!」
言葉が出なかった。
今にも泣きそうな小さな少女。
タキ、カナタ、ヤマメ――――――――――――――
物心が付く前から一緒にいた仲間達。
でも強要は出来ないと分かっていた。
タキ達が自分にとってどんなに大切な存在であるとしても、ラスタにとっては顔も知らない人間達だ。
小さな竜が生まれた日から今日まで一緒にいた自分より、彼らを救けて欲しいなんて、望んでいい筈がない。
まだ獣人の世界に帰ることの出来ないラスタの「家族」は、自分だけなのだ。
コタ。キバ。クヌギ――――――――――――――――――
仲間達の姿と、彼らの家族の姿が脳裏に鮮やかに甦る。
諦めろ。
そうするしかなかった。
ラスタの助けがなければ、この巨大な国から十三人を見付け出して脱出させるのは、ほぼ不可能だ。
胸が破裂しそうに溢れ出す記憶に、ナギは耐えた。
「……ごめん……。ラスタが正しい。……もう無理は言わない。」
それが強要にならないように、感情が声に出ないよう必死で堪える。でも表情に貼り付いた絶望までは、ナギは取り繕えなかった。
小さな竜人が息を飲む。
短い沈黙。
ぎこちなくナギが微笑い、ラスタが俯く。表情まで消せなかったと気が付いて、少年は自分に激しく腹を立てた。
悪いのはラスタに頼るしか術がない自分で、ラスタが罪悪感を感じる必要なんて欠片もない。
空気を変える言葉と表情と声を、少年は探した。
「…………行く。」
「え?」
呟くような声を、聴き間違えたのかと一瞬思う。
竜人少女が顔を上げ、瞳が合った。
「行く。」
「――――――――――――ラスタ」
夜が落ち、闇に包まれた小屋に、青い光が灯る。
「行かなくていいって言ってくれた――――――――――それで十分だ。」
十分?何が?だってそんなの、当たり前だ。
激しい葛藤が生じて、感情が処理出来ない。
竜人少女の光る瞳が真っ直ぐに自分を見つめている。
「ナギの大切な奴は大切にしてやる――――――。これはわたしの意志だ。」
槍で突かれたかのように、胸が痛かった。
◇ ◇ ◇
翌朝。
少しだけ心配していたが、今朝は誰にも邪魔されなかった。
いつもは鶏小屋の世話を終えた後はそのまま馬小屋へ向かうのだが、今日はナギは、牛小屋へ道を引き返した。
「『行ってきます』だ!」
白に近い水色の所々が鮮やかな青に置き換えられたドレスを纏い、竜人少女が両手を腰に当て、空中で胸を張る。現実の存在とは思えないくらいに美しい少女の胸許や左足には、金色の鎖が瞬いていた。
「……気を付けて。」
「うむ!」
「行ってきます。」
ナギも同じ言葉を重ねる。
すると笑顔で「うむ!」と頷いた直後――――ほとんど同時に、ラスタは消えた。
「―――――――――――――――――――――ラスタ?」
もう行ってしまったのか?
短すぎた別れの時間に少年が焦ったその時―――――――――――――
ぽんっ。
「うわっ!!」
どさり!
宙から降ってきた竜人少女が、加速をつけて少年の腕の中に落ちる。
「ラスタ!!」
心臓がばくばくした。
小さな竜人はナギの腕の中で、嬉しそうに両足をばたばたさせて笑った。
肩に廻された細い手に、ぎゅうっと力が籠る。
大切な少女を、少年は抱き締め返した。
「――――――――――――――行ってきます」
腕の中の少女に、もう一度、ナギはそう告げた。
「うむ!」
そしていつもの微かな音。
はっとする。
温もりだけを残して、腕の中からもう少女の姿は消えていた。
「ラスタ―――――――――――――――?」
今度こそ出発したのだ。少女の気配はなく少年は一人、牛小屋に取り残されていた。
多分自分の方が、ずっと動揺している。
出来る限りのことを調べたし、出来る限りの準備もした。
足枷も一分だけ時間を稼げさえすれば外せるようにしたし、牛小屋の「収納」にも足場を組まずに登れるようにした。施錠された牛小屋から、脱出出来るようにもした。
竜人の存在に気付いていると思えるアメルダの真意は分からないが、自分のことをすぐに告発するつもりはなさそうだ。なぜミルを殺そうとしたのかは分からなかったが、今はミルも、ほとんど一人にされることがない。
だから今自分にとって一番危険なのはハンネスで、次がクライヴだと思う。
初めて別々に過ごす夜―――――――――――――――――
明日まで自分は、絶対に死んではいけない。
じゃらっ。
鉄の紐で縛られた足で、少年は朝陽が昇った世界を歩き出した。




