205. 父と娘
父親が諫めれば、若奥様も少しは変わってくれるかもしれない。
非常事態の最中だったが、一向に歩み寄る気配がない新婚夫婦の様子は、国家級の事件と並ぶくらい、ブワイエ家にとっては深刻な問題だった。
ゴウルがこれ程威圧感のある人間でなければ、こんなに逡巡しないで言えただろうに。ゴウルの纏う青灰色の服は優美だったが雰囲気を和らげる役には立っておらず、寧ろ威厳と迫力を増している。その姿に、「影の王」という言葉が脳裏に浮かぶ。
ゴクリと唾を飲み下すと、男は仕える家へのなけなしの忠義心を振り絞った。
「当家でのお暮らしになかなか馴染まれないようでして……」
と、出来るだけ婉曲に切り出してみる。
使者がブワイエ家を出た時、アメルダはハンネスの部屋にいた。
他者のことなど気にも掛けていなさそうな高慢な若夫人が意外にも、被害の悲惨な状況を聞いて倒れたそうで、ハンネスが部屋まで運んだのだと言う。
凄惨な事態のただ中で、その報告はブワイエ家の家内を少しだけ明るくした。
これでお二人の距離も少しは縮まるかもしれない。
ハンネス様、やるじゃないか。
ヘルネス夫妻と使用人達がそんな淡い期待を持てたのは、僅か一日だ。
翌日彼らの前に現れたハンネスは、いつにも増して不機嫌で、荒れていた。
アメルダが密室と化しているという自室ではなくハンネスの部屋に運ばれたのは、ハンネスの意志ではなく、切れ者の養育係の機転だったのではないかと今は思う。だがせっかくの機転も、逆効果だったのかもしれない。
それからすぐに男はブワイエ領を発っていたので、新婚夫婦のその後のことは分からない。
怯む気持ちを押し隠し、使いの男は言葉を接いだ。
「せめてご一家の食事の席に着いて頂ければと思うのですが……」
「食事?」
問い返してきたゴウルの声に訝しむような響きを感じ取り、男は不安げに瞬いた。
「食事の席にすら現れない」と、言外にアメルダの非礼ぶりを訴えたつもりだったが、ゴウルが何に引っ掛かったのか掴めなかった。
一拍置いて、ゴウルは男の話と言外の意味を理解した。存在感のある濃い眉が、厳めしい顔の上で歪む。
ゴウルが話を瞬時に理解出来なかったのは、ゴルチエ家には家族全員で食卓を囲む習慣がなかったからである。ゴウルと食卓を共にしているのは、妻と嫡男だけだ。
ゴルチエ家の敷地は広大で、その広大な敷地に点在する建物にほぼばらばらに家族は暮らしており、未婚の独立していない子供達に限っても、一家の全員が揃うのは年に数回程だ。
子供が幼かった頃は、しばらく会わずにいると子の背丈や顔つきが変わっていて、よく似た他人とすり替わっていても気が付かないかもしれない、と薄っすら不安になった程である。
ゴウルの苛立ちがビリビリと空気を伝わってくるようで、使者の男は身をすくませた。
「ああいう娘だ。そちらで教育してくれ。」
低く太い声で言い捨てて、「もう一つの王家」の主が出て行った時、残された男は絶望的な気持ちになった。
突き放された。
あの親に育てられて、あの娘なのだと思う。
儀礼的に娘の近況を尋ねただけだ。
娘の人格や人生に、おそらく関心がないのだろう。
◇
「旦那。」
自らも馬に跨り、護衛の騎馬兵に囲まれて裏口から出たゴウルに、陽気に声を掛けた男がいた。
護衛の一人が威圧するように、騎乗したまま主と男の間に割って入る。
「敵意はない」とばかりに両掌を顔の横で広げて見せた男は、恫喝的な視線にも動じず、護衛兵越しに笑顔で声を張り上げた。
「何かあったんで?」
護衛兵に囲まれた領主は男をジロリと一瞥しただけで、馬を前に出した。
紺と金の服の男達と「もう一つの王家」の主の馬が一斉に動き出し、石畳に蹄の音を響かせる。
巨大な駅の正門と裏口はかなり離れており、周辺の様子も違う。裏口の外は住宅街といった雰囲気で、それ程広くはない道を人々が行き交っていた。車道を横断していた男がそそくさと歩道によけて、騎馬の隊列に道を譲る。
「領主様だ。」
「何かあったのかしら。」
人々は囁き合ったが、物々しい一行に声を掛けようとするような恐れ知らずは、他にはいなかった。
「もう少し愛想があってもいいだろうが。」
去って行く隊列を恨めしげに見つめ、不機嫌にこぼしながら、奴隷商人は髪を掻き回した。
ゴウルがここまで来るとは、いよいよ只事ではないらしい。
平民に情報が回って来るのはいつなのか。
まあ、獣人に守られた玉座で呆けている王家より足腰が軽いのが
ゴルチエ家のいい所であり、怖い所だ。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
いつから?どうやって?
心臓が激しく打つ。
暗闇で、少年と竜人少女は向き合っていた。
やっぱり花嫁と黒い服の女はここに獣人がいることも、それが竜であることも知っている。
「ヴァルーダを奪う」――――――――――――――――――
真意が分からない。本気で言っているのか。
ただあの言葉が本気なら、腑に落ちる部分はある。
―――アメルダと黒い服の女中は、ラスタの存在に気付いているのではないか。
何度も疑ったが、それならなぜ自分が放置されたままなのか説明が付かないと思っていた。
でもそれがアメルダの狙いだったなら、話が通る。
ただそんなに単純な話なのか。
藁布団の横で、小さな少女も難し気な表情をしている。
自分達には、時間がない―――――――――――――――
唇を引き結び、少年は決意を固めた。




