203. 交差する男達と女達
夜明け前の濃灰色が体に圧し掛かる。
と、花嫁が僅かに後ろを見やった。
主の目配せに応えて、最初に大きく動いたのは黒い服の女だった。
静々と少年の前に進み出た女が、両の手を掲げて布包みを差し出してくる。
婚儀の翌日の、あの朝と同じだ。
「―――――――――――――――――――――」
木桶を両手に持ったまま、今回はナギは動かなかった。
あの日包みを受け取ったのは、揉めない方がいいと思ったからだ。
今は逆だ。
アメルダから物を貰う方がまずいと感じる。あの時だって、菓子を包んでいた布を人に知られずにこの女中に返そうとして、ナギは後で大変な思いをしたのだ。
黒い服の女との睨み合うような数秒は、花嫁の声で終わった。
「――――――――――――――ヒルデ。」
振り返ったお付きの女中に、アメルダは瞳でナギの「部屋」を指した。主人の指示に無言で従い、黒い服の女が手にしている物を「部屋」に置く。
「………!」
多分、ラスタはそこにいる。
冷気を纏う女に、その場所に近付いて欲しくなかった。内臓を潰されるかのように感じる。
包みを柵の間から差し入れると、女中はそのままスッと退がった。
コッ……
空けられた場所に、花嫁が歩み寄って来る。
「――――――――――――――――――――――――――」
自分とアメルダの間を遮るように、ナギは静かに二つの桶を体の前に降ろした。
少年が引いた境界を、アメルダは取り除こうとまではしなかったが、その際ぎりぎりの場所に立った。
まだ一度も声を発していない奴隷の少年を、青銅の瞳が見上げる。
「――――――――――私には好きに口を利いていいと言ったわ。」
そう言って微笑う女を、恐ろしいと思う。
自分の行動がナギの身を脅かしていることが分からないのだろうか。それともそれが狙いなのか。ミルを殺そうとした女だった。何が目的なのか分からない。
「―――――――――なんの用ですか。」
「話の続きをしに来たわ。起きたことを聞いていて?」
「……」
ふいにアメルダが、二つの桶の間を割るように足を踏み出した。
「!」
じゃらっ……!
ナギが後ろに退き、アメルダが立ち止まる。アメルダはそれ以上は進まず、その場所で言葉を接いだ。
「どこかの国が、ヴァルーダを攻撃しているの。大きな被害が出たわ。しばらくは大変でしょうね。」
「―――――――――――――――――」
――――――――――――なんで笑う?
香水の臭いが鼻を突く。
家畜小屋ではどんな臭いも、家畜の臭いに混じり合い、臭気を強くするだけだ。冬が終わると寒さは緩むが、臭いはどんどんきつくなるし、蠅にだって悩まされる。
「どう思って?」
『どう』?
一体この女の狙いはなんなのだろう。
カランッ!
「!」
右の桶が倒れた。花嫁が踏み込んでいた。
得体の知れない女が、少年のすぐ目の前にいる。
体が触れそうな距離にいる女を、息を殺して少年は見つめた。
艶然と花嫁が微笑う。
牛達が蠢く音が聞こえる。
そして女は、少年が考えもしなかったことを口にした。
「今ならこの国を奪えるかもしれなくてよ。」
「……!!」
『奪う』?
ヴァルーダを?
心臓を殴られるかのような衝撃。
―――――――――――――――ラスタに気付いている………?
「必要なものがあれば言って頂戴。私は大きな家の娘なの。この国の王都も、王族もよく知っているわ。詳しくね。」
言葉が失われた、短い間。そして。
「―――――――――――出て行…………って、下さい。牛の世話があります。」
ようやく口を開いた少年が発した言葉に、アメルダの表情が固まった。火が揺らめくように、怒りがちらちらと美しい顔の上で躍る。
「―――――――あなたと話せるとしたら、この時間ね。この家の人間に気付かれない時間を見付けるのに、少し苦労したわ。―――――――私に会いたいときは知らせて頂戴。」
ナギは応えなかった。
青銅の瞳を、少年はただ睨むように見返した。
花嫁が黙って踵を返す。
カラン……
ドレスの裾が倒れた桶を掠め、乾いた音が響いた。
外はもう、白み出していた。
軋む扉を開けて出て行く跡取り息子の妻と黒い服の女を、ナギは無言で見送った。
今ならまだ、館の人間達が起き出す前に戻れるだろう。
外から空気が入り込み、やっと息がつける思いがした。
足音が遠ざかる。
「……」
倒れた桶を起こしてから、ナギは「部屋」を見やった。
――――――――――――――――ラスタ?
もう姿を現しても、大丈夫な筈なのに。
「――――――――――――――――ラスタ?」
なおも数秒を置いてから、ぽんっ、と小さな音がした。
竜人少女は梯子の後ろに胡坐で座り、俯いていた。
ようやく差した朝陽に包まれて、金色の長い髪と水のように滑らかな服がきらきらと輝いている。今日の「服」の色が赤紫と紫のグラデーションだったことが、今分かった。
竜人少女が視線を上げ、二人の瞳が合う。
「―――――――――わたしはナギの望むことに手を貸そう。」
「……!!」
少年の体の中を、痛みのようなものが駆け巡った。
しばらくの沈黙。
やがて少年は微笑んだ。
「―――――――――――――――休んでて。」
小さな少女が目を瞠った。
ナギの視線は、ラスタの右に移った。
白い包みが置かれていて、これを放置する訳にはいかない。柵の間から手に取ると、大きさも重さも前回より上だった。青い瞳がちらりと包みを見やる。
「―――――――――――――――パン菓子が二つだな。」
二つ―――――――――――――――
その言葉に、ナギの喉はぐっと詰まった。
「―――――――食べる?」
「いらぬ!」
少女がぷいっと左を向いてしまう。
ナギも食べたくはないが、ラスタには食べてほしいのだ。
館に忍び込んだ時に二人でたまに盗み食いをすることはあるが、ナギはラスタにちゃんとした食事を用意してやれたことがない。「若奥様」と呼ばれる女に渡された菓子は、恐らく普通でもなかなか食べられないような上等な物だ。
「――――――――雑穀の甕に隠しておいて、夜に二人で食べようか?」
「―――――――――――――――――――」
その提案は、竜人少女の心を動かしたらしい。こちらを向いた青い瞳が少しだけ明るくなっていた。
あそこなら鼠の心配もしなくていい。
ラスタの気持ちの変化にナギがほっとしたのも束の間。
唐突に、小さな少女の頬が一杯に膨れ上がった。
「―――――――――――――――――やっぱりナギが食べるのは駄目だッ!!」
「―――――――――――――うん。」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
また馬が駅に入って行く。
噂に聞いた通りだった。
嫌な雰囲気だ。
「――――――――なんかあったらしいな。」
巨大な広場の片隅に停めた馬車の中からそれを見つめ、ガルフォンは苦い表情で呟いた。
駅は、早馬の交代場所だ。早馬の使いであることを証明する手形を携えた者達が、食事や宿泊、休憩をとる場所も兼ねている。
巨大な河に二つしかない橋の片方が存在するのみならず、王都の対岸という場所に位置しているゴルチエ領は早馬の一大中継地点であり、駅も巨大だった。
白く高い塀に囲まれていて、駅の中がどうなっているのかは見えないが、内部にはかなりの数の人馬がいる筈だ。
そこに二、三日前辺りから、各地からの馬がひっきりなしに着いていると、街で噂になっていた。
戦争でも始まりそうな気配がある。
「おいおい……」
商売に差し支える事態だけは避けてくれ。
男は太い指で、クシャリと髪を掻き回した。
◇ ◇ ◇
次々と着く馬の知らせは、ゴウルの許にも届いていた。ただし、使者達の用向きをゴウルが知る術はない。
各地の使者は国王への知らせを携えているのであり、一刻を争う道程の途中で、その内容を他者に漏らすことはない。
「―――――――――ブワイエ領からの使いがいたらわたしに知らせろ。」
命じたゴウルの声に、激しい苛立ちが滲んでいた。




