02. 奴隷狩り
こちら側にも石塀と木戸があり、それが家畜小屋と館を隔てている。
井戸があるのは、館の前庭だ。
じゃらっ……
少年が歩くと、足枷の音がした。
また冷気を裂くように鶏が鳴いた。
しんとした世界に、金属の冷たい音と暴力的な雄鶏の声だけが寒々しく響いていた。
きぃ……
鶏小屋の前を通り過ぎ、腰高の木戸を開ける。
小さな屋根を備えた井戸は、木戸を入った右側にある。
その井戸がある広い前庭と鉄柵を挟んだ向こうに、領主の麦畑と、森が広がっていた。
井戸の前で、少年は二つの大きな桶を降ろした。
小振りの桶が、煉瓦積みの井戸の縁に伏せて置かれている。井戸の屋根を支える柱の間に丸木が渡されていて、桶はそこに縄で繋がれていた。
桶を取り上げ、手で丸木を回して縄の先を井戸に落とす。
まだ薄暗い世界に、ぽちゃん、とガラスのような透明な音が響いた。
丸木の右端には滑車付きのハンドルが付いているが、力が続くのであれば、桶を落とすのも巻き上げるのも縄を直に掴んだ方が早い。
世界と館は、まだ寝静まっていた。
重い桶の縄を引き、何度も水を汲み上げた。
九回繰り返さなければ、牛小屋から運んで来た二つの大きな桶は満たせない。
顔や手も洗いたいが、日が上る前に体を濡らしてしまうと、冬場は堪える。
水を汲み出している内に、麦畑の向こうの空が白み始めた。
と、麦畑を挟んで南北に広がる森で、最初の鳥が鳴いた。
すると波紋が広がるように鳥達が起き出し、やがて森じゅうが鳴くように、鳥達が一斉に目覚めの声を上げた。
そろそろ館の料理人と使用人もベッドを出るだろう。
領主一家も使用人達も、奴隷のナギには容赦がない。
彼らはまるでナギが疲れも休みも知らないと思っているかのように、自分達が面倒に思うことを、次々とナギに押し付けた。
一緒に攫われた仲間達の中で、ナギは一番最初に売れた。
タキやカナタがこの国のどこでどうしているのかは分からない。せめて生きていてほしいとは思うが、死んだ方がましではないかと思うこともある。
朝陽が差した。
二つの桶が水で満ちる。
以前は一つを運ぶのもやっとだった桶を、二つ同時に持つ。
12歳の秋。
近所の遊び仲間と山に入った時に、ナギは奴隷狩りに遭った。
剣を持った男達に囲まれ、一番最初にヤマメとコタが捕まり、二人を人質に取られて、全員、逃げられなくなった。
男達に捕まった時にはまだ、遠く離れた異国に売り飛ばされることになるとは思ってもいなかった。
それから足と手にその左右を繋ぐ鎖の付いた枷を嵌められ、荷馬車に押し込められて、何週間も移動した。
自分達の運命を理解した時パニックになり、全員泣いた。
小さな頃から奴隷狩りに気を付けろと大人達に言われてはきたが、里のあんな近くで襲われるとは、誰も思っていなかった筈だ。
子供達が山で遊ぶのを、里の大人が止めたことはなかった。
母さん。
母と父が恋しい。
あの日の夕暮れ、きっと里じゅうの大人達が集まって、帰って来ない子供達を捜しただろう。
今頃みんなどうしているだろう。
自分達がいなくなった後のことを考えると、ナギは胸が痛かった。
ナギが生まれる遥か昔から、大国ヴァルーダは、奴隷商人達が攫って来る異国人を当然のように使役していた。
もう数百年もの間、属国同然の周囲の国々は、大国の横暴にただ耐えているだけだ。
井戸と小屋の間を四回往復する。
牛と鶏に餌と水をやり終えた頃には太陽はナギの目の高さに昇っていた。
館の台所に繋がる煙突から煙が上がる。
眩しい。
井戸の前で目を細める。
もうじき麦畑の世話に雇われている領民達がやって来る。
朝食を食べた後は、ナギは畑仕事に合流しなければならない。
ヴァルーダ人にとって奴隷は疑問を感じる存在ではなく、異国人の奴隷を助けようとする者は領民達の中にはいなかった。
それでも彼らは、館の人間達に比べれば遥かにましだ。
特に子供のいるような女性はナギにこっそり食べ物をくれることもあり、人間的な交流が生まれる時もあった。
今も片言しか喋れないが、ナギはヴァルーダ語の多くを麦畑で覚えた。
全部は理解出来ないが、畑仕事中の領民達のお喋りを聞き齧ることで、自分の主が貧乏な領地の、貧乏な領主であることも知った。
自分がここに買われたのは、「子供の奴隷は安いから」であるらしいことも。
攫われた仲間達は全員同じ年頃だったが、その中で自分が選ばれ、三年前のあの日、ナギは真っ先に馬車から降ろされた。
地平の上へ昇った白い陽が、瞳に刺さる。
もう太陽がこの位置か。
まだ馬小屋が残っていて、終わらなければ朝食にありつけない。
さっさと馬小屋を済まそう。ナギは井戸に背を向けた。
その時、人間の気配が乏しい世界に不穏な音が紛れ込んだ。
どくりと心臓が波打ち、息が苦しくなった。
もう一度振り返ると、ナギは眩さが視界を奪う麦畑の方を見やった。
以前に聞いた音と似ていた。
畑の右側の道を、何かが近付いて来ている。
やがて騎馬に囲まれた、四頭立ての幌馬車が見え出した。
冷たい手が、心臓を握り締めるのを感じる。
道をやって来るのは、三年前に見た、あの馬車だった。
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