197. 甘さ
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
その日の夕刻。陽が落ちる寸前の牛小屋の中。
竜人少女が謎の文様を書き付けた樫の葉を、少年は穴の開く程見つめていた。
目の前に座る小さな少女は、頭を床に付けそうにうなだれて落ち込んでいる。
ランタンはまだ灯したままにしているので、ナギは視認に困っている訳ではない。
何枚もの樫の葉とようやく手に入れたインク壺が、床の上でオレンジ色に照らし出されていた。
息も止める程集中し、記憶を総動員して情報を補完した少年はようやっと、鶏の羽根で自作したペンを手に取った。
「………こう………かな………」
少年が別の葉に書いて差し出した文字を見た竜人少女は、ぱっと顔を上げ、たちまち輝くような笑顔を見せた。
「上手いなっ!」
その様子があまりに愛らしくて、ナギはつい微笑ってしまった―――――――微笑っている場合ではないのだが。
ナギのヴァルーダ文字習得は、かなり難航していた。
朝は忙しくて夜は真っ暗という環境のせいもあるのだが、それ以上に問題だったのは、文字の師がびっくりするくらい、かなり物凄く凄まじい悪筆だったことだった。
人間の子供だって小さい頃は字が下手だから、筆記用具もない環境で育ててしまった実年齢1歳の竜人少女が悪筆なのは、考えてみれば当然だった。
初めて字を教えた時はラスタは、ナギが「僕も小さい頃は下手だったよ」と言うまで落ち込んでいた。
余談だが、人の姿になる前にラスタが筆談を試みてくれたということを、ナギはその時に初めて知った。記憶を辿ってみれば、小さな竜がコンクリートの床に水で何かを描いていたことがあり、絵だと思って「上手だね」と言ったことが確かにある―――――――――――その時も、小さな竜は物凄くうなだれていた。知らない内にラスタを傷付けてしまったようだと本当に申し訳なくなったが、今思い返してみてもあれがヤナ文字だった気がしない。
もし師匠がラスタだけだったら、ヴァルーダ文字の習得は絶望的な程困難を極めていただろう。
意外な形でナギを助けることになったのは、飢えながら大量のヴァルーダ文字と向き合った書庫での経験だった。
死すら頭をよぎるくらい追い詰められた出来事だったが、どんな経験も無駄にはならないものだと思う。
「もう一回書いてみる。」
新しい樫の葉に少年が書く文字を、竜人少女が感心しきりといった表情で覗き込む。
やっぱりつい和んでしまうが、微笑みながらナギは気を引き締めた。
ガルフォン――――――――――それが仲間の行方の手掛かりである「頭領」の名前だった。
ヴァルーダの配達機関を利用して、ガルフォンの居場所に辿り着けないかと考えてはみたものの、それが実現可能なのか、と問われれば分からなかった。
問題の一つがヴァルーダ文字だ。
未使用の封筒を一通、既に書斎から盗み出してはいるが、これがガルフォンの元に届くためには、最低限でも宛先がいる。ラスタかナギのどちらかが、「怪しまれないくらいにはまともな字で」宛先を書けなければいけないのだ。
そして問題のもう一つは、配達料やその支払われ方といった「決まりごと」が分からないことだった。もしかしたら封筒の色とかそんなことに、思いも掛けない決まりごとがある場合だってある。
調べなければいけないと分かっていたが、それがなかなか出来ないまま日が過ぎていた。
ミルの容態が急変するかもしれなかったこのひと月、少年と竜人少女は館の周囲から離れられなかったのだ。
牛小屋の外は光を失いつつあった。ランタンの灯を落とせば、ナギにはもう字は見えないだろう。
陽が落ちた時には灯も落とすのがナギのルールだったが、少年は今日はそうしなかった。
「――――――――――まだやるのか?」
小さな少女が小首を傾げる。
「うん――――――――少しだけ周りを見張ってて貰っていい?」
ナギは八枚目の樫の葉を手に取っていた。
焦りがあった。
焦ってはいたが、後で振り返れば、この時のナギはまだ甘かった。
ヤナは戦争には無関係だと思っていたし、トラム・ロウの水害が三週間という時間を掛けて遥か河口にまで至るとは、少年は考えていなかった。
仲間はブワイエ領より東か南で売られた可能性が高いと思っていたナギは、戦争や水害に彼らが巻き込まれる確率も低く見ていた。
「鍵も見ておく。」
「ありがとう。」
ナギが九枚目の樫の葉を手に取った時、ラスタが日課の書庫の確認のために高く浮き上がった。
一分も経たなかった。
たんっ。
小さな少女が目の前に着地して、少年は顔を上げた。
「――――――――ナギ!」
竜人少女の声の硬さにナギはどきりとした。
「――――――――鍵がない。」
「――――――――――――――――――――――――――」
思わず立ち上がった少年の顔は、微かに青ざめていた。




