195. 馬小屋の前
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
翌日。
早朝からちょっとした事件が起きた。
使用人の居住棟の脇を抜け、馬小屋に向かおうとしていたナギは、はっとして足を止めた。
じゃらっ……
鎖が音を立て、幾つもの瞳が奴隷の少年を向く。
馬小屋の手前には馬車が数台転回出来るくらいの広い空間があるのだが、そこに珍しい光景が広がっていた。
井戸の向こうに木製の武器の架台が並び、鎖帷子を纏った使用人の男達が数名、剣や槍の点検をしたり、素振りをしたりしている。服こそ普段着のままだったが、そこに領主の二人の息子の姿もあり、兄は剣を、弟は槍を手にしていた。
「野郎……」
金褐色の髪の男が呟く。
ハンネスだけでなく、使用人の男達が奴隷の少年を見る瞳にも敵意が宿っていた。
トラム・ロウ氾濫の知らせが館に届き、ハンネスに殺されかけたあの朝から、三日が経っている。跡取り息子の姿をナギが見たのは、その日以来だった。アメルダの姿もそれきり見ていない。
じゃらじゃらと鳴る鎖を引き摺る少年が気付かれずにいるのは不可能で、走れない足で今更引き返しても逃げ切れないだろう。
ラスタとミルの姿が少年の脳裏に浮かぶ。
じゃらっ……
男達から視線を外し、ナギは前へと進んだ。
ハンネスが自分を殺す気を持ち続けていたのなら、三日の間、姿を現さなかった筈がないだろう。そう判断していたが、確信している訳ではない。
途切れることがない鎖の音の中を歩きながら、ナギの神経は張り詰めた。もしラスタがまだ近くにいたらまた騒動に巻き込んでしまうかもしれないと、そんな不安も少し胸をよぎった。
使用人の男は六人だった。男達はナギを気にしながらも、完全に手を止めることはなかった。
昨日の男達と違う――――――――――――――――
その動きを見て気が付く。
館の男達が武器を扱う様子は洗練されていて、クロッスス村の夜警達とは明らかに違っていた。
昨日の自分の感覚は正しかったのだと、自分でも今頃になって分かった。
道具の持ち方や立ち方、筋肉の付き方といった「佇まい」のようなものが、訓練を受けただろう人間は違うのだ。
領主の息子達は動きを止めていたが、その二人からも一定の技能の存在を感じる。
戦争に向けて動き出している。
せめてあと三月。
開戦しないでほしい。
どこの国なのかは分からなかったが、北方の国とヴァルーダの間で戦争が起きたら、脱出の道が進軍路か、最悪戦地と重なりかねない。
今この瞬間も、この先も、たくさんの落とし穴があるかのように、自分達の運命が何重にも脅かされていると感じる。
少年がそれでも無言で歩を進め続けたのは他に選択肢がなかったからだが、紺と金の服を着た少年奴隷は冷静過ぎる程冷静に見えて、それがハンネスの神経を逆撫でした。
跡継ぎ息子は剣を剝き身のままガシャリと架台に置くと、弓を手に取った。
矢がつがえられる。矢先が自分に向けられるのを見て、少年は目を瞠った。
ひゅんっ
「っ!」
風を切る音がした。
太い木の棒がどすりと突き立つ。
矢が落ちたのは、ナギの手前の地面だった。
ナギはよけようとしなかった。
当てる気はなかったのだろう。
照準がずらされていることに気が付いていた。
だがその場にいる誰もハンネスの行動を止めようとしないことが恐ろしかった。
多分領主は奴隷を生かしておくことを望んでいて、それが彼らの抑止力になっている。でも今なら「訓練中の事故」として自分を殺せるのかもしれない。
武器を持つ八人の男達を相手に縛られた足で、逃げることすら難しい。
膨れ上がった緊張に一刺しを入れたのは、もう一人の息子だった。
サドラスは醒めた目で隣の兄を見やると、小声で、だが聞こえない程ではない声量で呟いた。
「当てればいいだろう。腑抜けが。」
「てめぇッ!!今なんて言った?!」
ハンネスが激昂する。
「当てる勇気もないなら射なきゃいい。」
「腑抜けはてめえだ!!」
「なんで俺が腑抜けだ?!!」
弟と怒鳴り合うハンネスが二射目をつがえるのを見て、ナギは絶句した。弓がぎっと引き絞られ、矢先が今度は、はっきりと自分を向いている。
兄弟喧嘩が高じて人殺しとは。
少年の恐怖と怒りに、あきれと軽蔑が入り混じる。
この館で自分とミルに起こることはいつも理不尽だったが、「理不尽だ」と訴えたところで助命はされない。
ひゅんっ
ナギは今度はよけた。
じゃらっ。
鎖が足に絡む。少年の左を矢が通過した。
軌道を読み最小の動きでそれをよけた少年は、転倒しなかった。ただし狙いは微妙に外れていたから、じっとしていても今のは当たらなかっただろう。
だがその瞬間。
「キャアッ!!」
「!!」
驚いてナギは振り返った。
その場にいる全員がギョッとする。
女中の横を矢が掠めて行く。
建物の陰から出て来たところで殺されかけた30代くらいの女中は動転していた。今にも泣き出しそうな表情で目を見開き、女中は数歩左に寄ってはオロオロと戻ることを何度か繰り返した。
さすがにハンネスもばつの悪そうな表情をした。だがそれも一瞬だった。
感情を収めることが出来ず、跡継ぎ息子は弓を地面に叩き付けた。
「なんの用だ!!」
金髪の女中の肩がびくりと震える。
間違いで女性を殺しそうになっておいてその態度か。
この館の人間に同情するつもりはないが、それでも少年はハンネスのその態度に腹が立った。
すぐには声も出せなかった様子の女中は、数秒を掛けてようやく用件を思い出したようで、健気にも仕事を果たした。
「旦那様と奥様が……ハンネス様達にお食事の席に着かれるようにと……」
全員がハンネスの反応を窺う。
領主の息子は一瞬だけナギを睨んだ。
怒りに満ちた表情で、だがハンネスは裏庭の方へと歩き出した。
何度か庭仕事をさせられたことがあったので、館の裏庭に面する場所は、ナギもある程度知っている。庭園に向いた場所にはホールの他にも外への出入り口があり、領主一家は大抵そこから馬小屋へやって来る。
結局ハンネスが謝罪の言葉を口にすることはなかったが、そこですぐに立ち去ったのは、やはり後ろめたかったのかもしれない。数歩の間を開けて、サドラスも兄の後に続く。
少年は、命の危機を免れたようだった。
◇
きぃ……
ナギは馬小屋の扉を開けた。暗い小屋に光が入る。
馬房は右側に六つ並んでいて、左に馬の手入れ用の道具や跳ね上げ式の木の窓が並んでいた。
馬達が鼻を鳴らす音が聞こえている。
少年は先ず窓を開け、小屋に光と空気を取り込んだ。
少年の空腹感はこの時間にはかなりきつくなっているので、いつもなら窓を開けた後は脇目もふらずに作業に取り掛かるのだが、この日はナギは、作業の前に入り口から三つ目の房に向かった。
そこはヘルネスの馬の房だった。
仕切り越しに中を見ると、鹿毛の馬はただ静かにそこに佇んでいた。
何も変わった様子はない。
馬がナギに特別関心を見せる様子もない。
夜の村で見掛けていなければ、この馬が昨日出掛けていたと知ることはなかっただろう。
◇ ◇ ◇
ナギが勝手口の扉を開けると、ミルと目が合った。
休ませてやらなければいけない体だと分かっているのに、ミルに会えて嬉しいと思ってしまう自分がいる。それは無理をしてでも台所に出たいと思うミルも同じだった。
ほとんどいつも二人が会えるのは朝のこの数分だけだったし、ミルが命の危機の中にあったこのひと月は数分すらも会えずにいたのだ。




