191. 暗闇の村の火
細い通路の先でオレンジ色が動いている。
馬は脚を止めたままだ。
自分が分かっている。
じっとこちらを見つめている瞳を見てそう思う。
毎朝自分達の世話をしている人間の姿に、気が付いたのだ。
ヘルネスの馬だ。
この暗さでもそれが見分けられるくらいには、ナギも馬達のことを覚えている。
カッ………
こっちに来る!
「……止まれ」
馬上の老人がほとんど空気に紛れているかのような掠れた声で命じたが、馬は乗り手の指示に応えなかった。
カポッ…カポッ…
ゆっくりと向きを変え、馬がナギの方へとやって来る。
こんな時でなければ可愛いと思えるかもしれない馬の行動だったが、今は恐怖だった。
迂闊だった。
馬は夜目が利くと分かってはいたのだが、遠くの建物の影から僅かに覗いていただけの自分に気付くとまでは思わなかったのだ。
落ち着け。
馬はこの隙間には入れない。
左肩の上の小さな手に自分の右手を重ねると、少年は竜人少女を抑えるように力を込めた。
「後ろへ」
背中の少女に囁く。
馬は見えている。
人間が宙に浮き上がれば、パニックを起こして暴れ出すかもしれない。
返事の代わりに竜人少女の小さな手は、少年の両肩をぐっと握り返してきた。
竜人少女を肩に乗せた少年は、自分の手足すら見えない闇の中を慎重に後退った。
馬と明かりの橙色が近付いて来る。
あの明かりが届かない所へ逃げなければ。
緊張と恐怖で全身が強張り、無意識の内に、ナギは呼吸まで止めていた。
「止まれ」
馬の入れないこの隙間を自分で確認しようという気はないのか、老人が同じ言葉を繰り返して進路を修正しようとしている。
あの体で馬を降りたら最後、もう一度鞍に戻るのは大変だろうから、それは避けたいのかもしれない。
あんな体の年寄りを、ヘルネスはどこに使いに出していたんだろう。
馬は、朝は三頭とも小屋にいた。
――――――――――――――一日で行って帰って来られる距離だ。
――――――――――――――こんな時に、どこへ。
この老人のことを、ナギはよく知らない。
薬草の女中共々とっくに隠居していてよさそうな年頃と、九十度に近いくらいに曲がった腰が強烈に印象的なので一度見ただけで姿は覚えたが、極端に狭いナギの行動範囲で彼を見掛けることはほぼなく、この老人が日頃何をしているのかも、名前も分からなかった。年齢を考えれば当然と思えたが、館の使用人も軒並み駆り出される収穫作業の時も、この老人と薬草の老婆はいなかった。
……使いに出すなら、他に男が何人もいるのに。
と、蹄の音が乱れた。その場で足踏みするようにしながら、馬が首を巡らす。
カポッ、カポッ、カッ……
まだ抵抗されてはいたが、老人は馬を制することに成功したらしい。反転した馬の顔が、細い通路から見えなくなる。
今だ。
「ラスタ、上へ」
「うむ」
ラスタの反応は素早かった。
体に風を感じる。一瞬で視界が切り替わった。
高い。
先刻まで目の前にあった火の色が、遥か下にある。
「!」
これまで空中をラスタに何度も運んで貰ったが、高さがこんなにはっきりと目に見えたのは初めてだった。
思わず体が揺らいだが、ナギは足を出すのは堪えた。手にランタンを持っていることを失念し掛けていることに気付いて、ひやりとする。絶対に物を落としてはいけない。
「危なかったな。」
竜人少女がそう言って、肩の上で身を乗り出す。
うっ……
少年は心の中で呻いた。重心が移動してどきどきする。
小さく深呼吸を繰り返してから、ナギは改めて地上を見つめた。眼下は黒い海のようで、ぽつりぽつりとある僅かな明かりは目立った。
「――――――――――――――――――――?」
老人が乗る馬が、意外な方向へ進んでいる。広場で唯一明かりが灯されている建物の方へと向かっていた。
なぜ。
答えはすぐに分かった。老人が掲げる火色の中に、鉄柵と門扉がぼんやりと浮かび上がる。鞍上の老人が、乗馬用の短い鞭を持つ手を伸ばした。
カン、カン…………
老人は馬から降りることなく、鞭で突くようにして門扉の小さな鐘を鳴らした。
少年と竜人少女の顔が強張る。
人を呼んでいるのか。
そしてほとんど時間を置かず、予想外のことが起きた。




