19. 今日を終える見通し
ミル一人の話を、へルネスが通訳を挟んでまで聴くとは思えない。
へルネスに限らず、この館の人間達は奴隷を同じ人間だとは思っていなかった。
ミルを不安にさせたくない。
痺れるような痛みの中で、最初にそう思った。それからほとんど同時に、ばら撒かれてしまった自分の朝食のことを思った。
今日ナギは、夜明け前から空腹だった。
昨日も一食しか食べていない。
だが今日の朝食が、改めて提供される気がしなかった。
ブワイエ一家は自分を生かしたままこき使いたいようだが、自分は大人になるまで生きられるのかと、三年の間にナギは何度も疑った。
「ナギ‼」
ようやく体に力が入るようになり、少年はゆっくりと起き上がった。
自分も大怪我をしているのに、ミルが支えてくれようとする。気持ちに応えた方がいい気がして、なるべく体重を掛けないようにしながら、ナギは彼女に形だけ肩を貸して貰った。
床に少年が半身を起こす。と、少女が無言で立ち上がった。
足を引き摺りながら少女が歩き出し、鎖がじゃらじゃらと鳴る。
奴隷の足音が近付くのを聞いて女中が振り返る。
虚を突かれて、ナギは咄嗟に何も出来なかった。
ミルが野菜の皮剥きをさせられていた場所の後ろには、壁付けの大きな水場が、竈と直角を成して造られていた。その周りにも壺やら篭やら沢山の物が置かれていたが、その中から白い布を一枚取り上げると、少女は蛇口を捻ってそれを水に浸した。
この館の中では、近くの川から引いた水が供給されている。
「ちょっと、何を勝手なことを、誰が水を使っていいって…………ナギ‼」
女中は目を丸くして喚き出し、少女に言葉が通じないことを思い出すと、ナギの名を叫んだ。
だがナギも呆気に取られていた。
奴隷が自由に振る舞うことを、館の人間は許さない。
しかしミルはまだ館での奴隷の生活を知らず、ヴァルーダ語も分からない――――――――筈だ。実際にはミルはその状況を逆手にとって、女中が何を喚いても、分からないふりをしたのだが。
やはり足を引き摺りながら戻って来た少女が、自分の頬に冷たい布を当ててくれ、ナギは不覚にも泣きそうになった。
言葉が分からないにしても、女中の怒声が自分に向けられていると、気付かない筈はないだろうに。
大怪我を負ったまま遠い異国で奴隷として売られて、今日が最初の日の彼女は、今押し潰されそうな程に不安な筈だった。
「勝手なことするんじゃないわよ…………ナギ‼」
「今そう話します。」
女中がすぐ近くまで来てミルに掴み掛らんばかりの様子を見せたため、ナギはミルを庇うように立ち上がった。
高齢の女中は少し鼻白む様子を見せた。
今この台所には、二人の奴隷と女中だけだ。
もし暴力沙汰になったら、自分の方が分が悪い。
15歳の少年は、もうそれ程小柄ではなかった。
とは言え、少年が有利に立てるのは小太りの料理人がいない今だけだ。ナギはそっとミルの手を抑えた。
今日この後も台所仕事をさせられるのかもしれないミルの立場を、悪くしたくなかった。
ナギの気遣いを理解したミルが悲しそうな表情をする。ナギの頬は、両側とも赤黒く変色していた。
「――――――――――あの男の人は何を怒ってたの?」
「――――――――――心配しないで。」
泣きそうな表情で尋ねるミルに、ナギは無理にも微笑ったが、頬が痛くて、上手く笑えなかった。
仲間達が乗っていた馬車が去って行き、どことも知れない異国の地にたった一人で残され、家畜小屋に閉じ込められた夜の絶望と恐怖を、ナギは覚えている。
あんな思いをさせたくない。
絶望を感じないことが無理だとしても、せめて和らげたい。
心配しないで。
現実に直面するのを少し先伸ばすだけの言葉だが、少しだけ先伸ばしたいと思う。
初日からミルに大きなショックを与えたくなかった。
一方でナギは、自分達が意外な幸運を得たことにも気が付いていた。
―――――――――――――自由に話せている。
二人は今、思わぬ機会に恵まれたのだ。
竜のことを、ミルに伝えたい――――――――――――
心をよぎる。
だがそれは思い留まった。
納屋の竜は、今見付かっていてもおかしくない。
ナギが今日を無事に終えられる見通しは、なかった。
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