189. 闇の中の音
「………ラスタは廊下を見張って貰っていい?」
見張りが疎かになるのはやっぱり危険だ。竜人少女に見張りに専念して貰えるのなら、そうすべきだった。
同じ考えだったのか、少女が即座に「分かった」と応える。だが小さな竜人が続けて「外に出る」と言った時、ナギは慌てた。
「―――――――――――――――外?」
「その方が、外と廊下と一遍に見張れる。」
「………!」
「外」とは、「屋外」の「外」らしい。
「――――――――――――分かった。」
数秒を置いてナギは頷いたが、話を詳しく聴く時間がないと思っただけで、ラスタのしようとしていることがちゃんと理解出来ていた訳ではなかった。
「窓のすぐ外にいる。わたしが必要な時は窓を小さく叩いてくれ。」
「―――――――――ラスタ。」
すぐにも姿を消しそうな様子を見せた小さな少女を、少年は呼び止めた。
「―――――――――気を付けて。」
少年がそう告げると、ラスタの大きな目が一杯に見開かれた。音を立てそうに長い睫毛が、数回慌ただしく瞬く。
想像もしなかったことを言われたという表情で、その反応はナギを切なくさせた。
「大丈夫だっ!」
金色の光にに包まれているかのような少女が笑顔を見せる。床にぺたりと座ったまま、ラスタが両手を腰に当てて胸を張って見せたので、ナギはつい、微笑ってしまった。
竜人少女の物を透かして見る力に困ることがあるとすれば、「その場所の音までは聞こえない」ことだった。
実際にその場にいれば足音や声で分かる筈のすぐ近くの人間の存在に、視線が別の方向を向いていたというだけで、気が付けないことがあるのだ。
だが小さな少女は、その制約を逆に活かす方法を既に編み出していたらしい。
ラスタがこの時、外の様子を耳で拾い、中の様子を目で拾っていたとナギが教えて貰ったのは「帰宅」してからだ。
―――――――――そしてぽんっ、という音と共に竜人少女の姿は掻き消えた。
仄暗いオレンジ色に包まれた部屋が静まり返る。
人の気配も音もない部屋の空気が、少年の鼓膜に圧し掛かった。
二つの封筒の束に向き合い、ナギは一度深く息を吐いた。
期待出来ないと思ってはいても、心臓が激しく打つのは鎮められない。
仲間達の記憶が胸に溢れて苦しい。
一つ目の山の、上から一枚目と二枚目の封筒を左右の手に取る。
それからかなりの速さでナギは次々と封筒を手に取っては確認し、裏返して積んでいった。
手書きの文字同士の照合は、一年前の書庫の時より遥かに簡単だった。まだ数文字を覚えただけとはいえ、ヴァルーダ文字に馴染みが出来ていたことも大きい。
「……………」
あっと言う間だった。
十七件の住所が記されたリストと、裏返しに積まれた二つの封筒の山が、床の上にただ並んでいる。
微かな期待は、運命の扉に呆気なく跳ね返された。
少年は両手に顔を埋めた。
ようやく手掛かりを掴んだのに。
その先が続かない。
「――――――――――――――――――――」
もう一度リストを手に取る。
橙色に染まる紙を少しの間眺めてから、ナギはそれを元通りに金庫に収めた。
この日にナギが館の執務室から持ち出した物は、当初の予定通り、四つだけだった。
少年と竜人少女がリストの中から目的の男を特定出来たのは、それからひと月後の花嫁が輿入れした日だった。
そして血の臭いがする恐ろしい花嫁がやって来てから、脱出の準備も、仲間捜しも中断してしまった――――――――――――――
◇
看板の文字がランタンの灯りの中に浮かび上がる。
村は闇に包まれていて、微かな水音の他は夜行性の鳥の声だけが時々聞こえていた。
アメルダが嫁いで来た日からあまりに色々なことがあり、正直今、明日のことすら予想出来ない。だが全てを諦めるような段階でもなかった。
少年はまだ「戦場」に立っていた。
「………なんて書いてある?」
「『商人集まり所』、か?―――――――――ヤナ語にするのが難しいな………」
頭の上から小さな少女の声がする。
「そうなんだ――――――――――ありがとう。」
目隠し姿の少女を肩に乗せ、少年は僅かな灯りを頼りに移動した。
その時。
ふいに静寂の中で重い音が響いた。
微かな音だったが、それまでどこからも聞こえていなかった異質な音だった。なんの音だか、だがナギにはすぐに分かった。
はっとして、ナギは闇の中の村を見回した。
まだ遠い―――――――――――――――――でも近付いて来る。
「ナギ!」
警告の声を発しながら、ラスタが宙に浮き上がった。
―――――――――――――――――――――――蹄の音だ。




