178. ぎりぎり
短い沈黙を破ったのは、幼い少女の声だった。
「それで配達の仕事がどうしたんだ?」
「―――――――――もしかしたら、ヘルネスと奴隷商人は、手紙をやり取りしているかもしれない。」
「―――――――――うむ?」
「………」
一瞬ナギは、笑いそうになってしまった。
和むような場面ではないのだが、小さな子供の声にきょとんとした調子で「うむ?」とか言われると、やっぱり可愛過ぎる。
堪え切れずに少しだけ微笑う。
竜人少女の存在を、誰にも知られてはいけない。
ヴァルーダにも、どこの国にも。
心の奥で、ナギは呪文のように自分にそう言い聞かせた。
それから少年は、闇に灯る光に「配達」が意味することを語り出した。
◇
ヤナにも国が管理している配達組織はある。
ヤナでは「配達局」と呼ばれていたが、一般の国民には縁遠い存在だった。
理由はお金である。
手紙や物を遠方へ送ろうとすれば日数と人手が掛かるし、当然それだけ、利用料は高額だった。
だから庶民にとっては配達局は、最初の選択肢ではなく、最後の手段なのだ。
遠方に何かを送る必要が生じた時は、届け先の方面に向かう行商人や旅人を探し出して頼む方がずっと安く済んだし、それが庶民の一般的なやり方だった。
一方で、裕福な家もやっぱり配達局は使わない。
上流階級の家は逆に余計にお金が掛かっても、その都度人を雇うものだった。多分多くの国で、上流階級の家とはそういうものではないかと思う。金が問題にならないのなら、それが一番早くて確実に物を届ける方法だろうから。
―――――――――――ヴァルーダの上流階級でも当然そうなのだろうと、ナギは思っていた。
だから今日、数日おきに館にやって来る男が手紙を届けに来ているのだと分かった時は、雷に打たれたような衝撃を覚えた。
玄関先で男は、色も大きさもばらばらの封筒を女中に渡していた。
五通はあったと思う。
「そういう印象」と言うだけだが、手紙は色々な場所から来たように見えた。
ヴァルーダにはもしかしたら、上流階級の人間が不便を感じずに使えるくらいの、早くて正確で、そして全国的な配達組織があるのかもしれない。
「毎回使いを立てるやり方をしてるなら決まったように週に二回も来ないと思うし、一度にあんなに手紙を持って来ないと思うんだ。」
「―――――――――――――――うむ。」
「―――――――――ヘルネスと奴隷商人は、ヤナの『配達局』みたいなものを使ってやり取りしていたかもしれない――――――――ミルがブワイエ家に買われたのは偶然だったけど、僕の時は違った。ブワイエ家が子供の奴隷を買うことは、最初から決まってた。だから僕達が奴隷狩りに遭う以前に、ヘルネスと奴隷商人は連絡を取り合っていた筈なんだ。」
ブワイエ領は決して国境に近い領地じゃない。でも四年前、二カ月近くを掛けて、商人達はヤナから真っ直ぐにブワイエ家へ来た。その時既に、領主の家には奴隷のための足枷も「部屋」も、小屋の鍵も用意されていて、奴隷用のトイレは、出来上がる直前だった。誰にも戸惑う様子はなく、明らかに予定通りと言った雰囲気で、ナギは淡々とブワイエ家に受け渡されたのだ。
「もし『配達局』みたいなものを使っているのなら、届け先の正確な住所をヘルネスはどこかに控えているんじゃないかと思うんだ。――――――――僕らがその住所に宛てて、どうにかして何かを送ることが出来たら、配達人の後を追えばその場所に辿り着ける。」
「――――――――――――そうかもしれないが。」
少しだけ熱を込めて語っていた少年は、浮かない様子の声を聞いて口をつぐんだ。
ふと見ると、目の前の青い光は感情の波立ちのない静かな色合いを帯びていた。
一拍の沈黙の後。
「友達のことは、諦められないのか。」
「……!」
「この広大な国から十三人を捜し出して、脱出させて、更には故郷まで連れ帰るというのは並大抵のことじゃない。」
竜人少女の幼い声は、大人のように冷静だった。
「―――――――――――――――――――――」
今にも途切れそうに細い希望の糸をようやく見付けただけと自分でも理解していたが、それでも浮足立っているように見えていたかもしれない。
僅かな昂ぶりさえ否定するのは苦しかったが、ナギは逸る気持ちを一端抑え込んだ。
自分が奇跡に近いことを望んでいると、分かっていない訳じゃない。
「分かってる――――――――――でも千に一つの可能性でも、まだ可能性が残ってるなら最後まで諦めたくないんだ。全員を救け出すことは出来なくても、一人か二人なら救けられるかもしれない。」
闇に再び沈黙が落ちる。
青い光がこちらを見つめていた。
やがて。
「分かった。やれるだけのことをしよう。」
冬の夜の闇の中、幼い少女の声がそう言ってくれた時、ナギは息が苦しくなった。
可能性が残された。まだ仲間達を完全に諦めなくていい。
クライヴに見張られて身動きが取れずにいる分、仲間の行方捜しに掛けられる
時間は延びた。
「ありがとう……。」
「うむ!」
ラスタが笑ってくれて、少しだけ気持ちが救われる。
ミルのこと。仲間のこと。そして竜人の少女のこと。
辛うじてまだ全て手の中に留まってはいたが、今にもどれかがこぼれ落ちそうだった。
「……ヴァルーダは巨大だけど、仲間のほとんどはトラム・ロウ河の東側にいるんじゃないかと思うんだ。」
僅かでも希望を増やそうとしてそう言うと、「そうだろうな」とあっさりと応えられ、ナギは小さく目を瞠った。
「橋は二つしかないからな。ヤナからブワイエ領まで真っ直ぐに来た後、ここから橋までの長い距離を延々と引き返して西岸に戻ったとは考えにくい。もう一度河を渡るとしても、王都に掛かってる方の橋を渡るだろう。」
その通りだった。
もう一つの橋と王都は、河口に位置している。つまりこの国の南端まで下らない限り、西岸に戻る道はないのだ。
捜索範囲が半分になったとしてもヴァルーダはまだ巨大だが、範囲が絞れないよりはいいと思っていた。
ラスタは仲間の行方をちゃんと考えていてくれたのかもしれない。
仲間捜しに否定的だった筈の、ラスタの優しさと冷静さが胸に迫った。
と。
「ナギ。」
「うん。」
「歌ってくれ。」
「えっ?」
「眠い。」
「――――――――――――――――――――」
竜人の小さな少女にどこまで夜更かしをさせていいのかという疑問と葛藤は、ずっとある。
「――――――――――――――もう寝ようか。」
「大丈夫だ!歌ってくれたら目が覚める!」
「―――――――――――――――――――――」
子守唄の認識は、完全におかしなことになっていた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
それから身動きが取れないまま三カ月が過ぎ、冬は終わろうとしていた。
脱出の準備も仲間の行方捜しもままならず、ナギは焦りを覚え出していた。
鶏の声が聞こえる。
薄闇の中で少年は目を覚まし、小さな竜が腕の中にいないと気が付いた。
はっとしてナギは体を起こした。
ざっ……
乾いた藁が擦れ合う音を立てながら散らばる。
冷気は肌を刺すようだった。
周囲を見回すと、ラスタはナギの枕元に近い場所に立っていた。
白に近い薄桃色の巻きスカート。長い髪にきらきらと光が絡んで、輝いている。
竜人の少女はもう、人の姿をしていた。




