177. 獣人達の記憶
週に一、二度の頻度で見かけるその男が何者なのかナギの想像が及ばなかったのは、ナギがヤナ人だからだ。
昼の日差しに温められ、少しだけ冷気が和らぎ出した玄関ポーチで、その男は女中に対応されていた。
「――――――――――――――――――!」
息を飲んだ。
木戸近くの場所で足を止め、ナギは玄関先のそのやり取りをしばらく凝視していた。
と。
「何をしている。」
しわがれた低い声に驚き、少年は弾かれるように後ろを振り返った。鎖に足を取られてしまい、一瞬よろめく。
石積みの塀と館の壁に挟まれた通路に、白髪の男が立っていた。
「なんでもありません。」
半瞬を置き、ナギはそう言葉を絞り出したが殺気立った目でこちらを睨んでいた老人はその時にはもうナギを追い抜いていて、自分で奴隷の視線が向いていた方角を確認していた。
特におかしなことが起きていた訳じゃない。
少年が見ていたものを理解すると、クライヴの瞳には訝しむような色が浮かんだ。
老臣が納得して許可を出すまで、ナギはその場を動かなかった。
クライヴはあの日からナギに疑惑の眼差しを向け続けている。その警戒心を少しでも解くために、ナギは老人の前では冬じゅう従順にしていた。
やがてクライヴは顎で麦畑を差した。苛立たし気に。
畑では既に午後の作業が始まっていて、村人達があちこちにしゃがみ込んでいた。
ナギがようやく麦畑に向かって歩き出した時、女中に対応されていた男は、もう門を出る所だった。
領主の館には、日頃から色々な人間が出入りしている。週に一度とか二度とか定期的にやって来るのは、ほぼなんらかの業者だ。
山盛りの野菜や、生きた豚や鳥を積んだ荷車を、ナギは麦畑から頻繁に見ている。館で飼っている牛と鶏だけでは毎日の食事を賄えないので、足りない分は、ブワイエ家は外から買い付けていた。
その中で、毎回布鞄一つだけでやって来るあの男は何者なのだろうと以前にも、疑問に思ったことはあったのだ。
畑仕事の最中に村人に尋ねたこともあったのに、返ってきたヴァルーダ語がその時のナギには分からなかった――――――――――――――――
なぜそこで諦めてしまったんだろう。
◇ ◇ ◇
「うむ!3対1だ!!」
暗闇で、小さな少女の得意げな声がする。
横たえた梯子の踏み板と踏み板の間の升に椀を置き、椀に入れば1点。
踏み板の間の升に落ちたり、梯子の上に乗ったりしたらマイナス3点。
梯子の外側に落ちたら0点。
どんぐりの的入れは毎夜難度が高くなっていて、その日の勝負は、ナギの惜敗だった。
真っ暗なので採点はいつも竜人の役割だったが、ラスタは僅か1点差で自分が負ける時でも、真っ正直に結果を告げる―――――――――――――――――それはもう、渋々と。
「………―――――――――1対………―――――――――――2だ………」
とか幼い声が申告する度に、ナギは思わず笑ってしまう。
的入れゲームをするようになって少し驚かされたのだが、ラスタはかなり計算が早い。
「獣人の記憶」には四則演算も含まれているのだろうかと、またちょっと不思議に思う。
そして自分の勝ちで終わった夜は小さな竜はゴキゲンで、あっと言う間に寝てしまう。
明日の朝にしようかとも思ったが、牛の世話をしながらの会話は落ち着かない。
「ラスタ――――――――――話があるんだ。」
少年が切り出すとその声の硬さに気が付いたのか、青い光が微かに丸くなった。
◇
「ヴァルーダにはもしかしたら、配達を仕事にしている人間がいるのかもしれない。」
「ヤナにはいないのか?」
あどけない声に問い返され、少年は目を瞠った。
「ヴァルーダにはいるって知ってるの?!」
ナギの驚きを見て、藁布団の中で向き合った青い瞳は戸惑うような表情を見せた。「いや、知らぬ」と、竜人少女が否定する。
どうかと思うが、小さな少女はその時もナギの膝の上にいた。
寒さを気遣ってくれるのはありがたいが、やっぱり「獣人の記憶」がよく分からない………。
「生きて行くのに役立つような必要最低限」だと竜人少女が言う「獣人の記憶」は、人間のナギから見ると思わぬ情報を含んでいる場合もあれば、その逆の場合もあった。
だがその夜竜人の少女が語ってくれたことで、ナギは獣人達の記憶を少しだけ理解出来るようになった。
「人間の風習や決まりごとは国や時代ですぐ変わってしまうからな。細かいことや変わりやすいことは、あまり獣人の記憶には残らない。」
竜人の少女は神のようになんでも知っている訳じゃない。
その言葉で改めてそう理解した時、ナギは初めてあることに思い至った。
じゃあ合いの子の獣人達はどうしているんだろう。
「恩返し」が済むまで人間の世界で暮らす彼らには、その国の知識が必要な
筈だ。
「………合いの子の獣人達って、生まれた国の『教育』を受ける?」
答えが「記憶」にあるかは分からなかったが、その質問はナギの口を突いて出ていた。
果たして答えは返って来たが、聴かされた言葉は人間の少年の心を重く沈ませた。
「――――――――――――卵をかえした人間によるな。大体ろくなことは教わらない。国ごとの兵力数とか。」
「―――――――――――――――――――」
そうか、と思う。
支配者達は、ずっとこうやって争いの場に獣人達を使って来たのだろう。
きっと獣人達の「記憶」に残る程、遥か昔から変わらず、ずっと。
凍てつく闇で輝く青い光を見つめて、数秒、少年は言葉を接げなかった。




