173. 少年の戦場
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
館の三階の武器庫が開けられた。
ラスタが言うには、ハンネスやサドラスも含めた館の男達がそこに集められて、全ての武器の点検と手入れが行われたらしい。
どんなに信じ難いことであっても、さすがに誰もが、ヴァルーダが他国から攻撃を受けているのかもしれないと考えざるを得なかったんだろう。
トラム・ロウ沿岸の凄惨な事態が知らされてから、今日で二日目だ。
手探りで探り当てたハンドルを握ると、ナギは静かに一度息を吐いた。
自分の手すら見えない闇の中だが、すぐ隣に灯っている青い光だけは見える。
「……開けるぞ。」
「うん。」
二つの青い光に、少年は頷いた。
がちゃん………
闇に包まれた扉の向こうで、重い鉄の音がする。鉄の音はがちゃがちゃとそれから少しだけ続いた。
遅れを取り戻さないと。
ほとんどひと月、仲間の捜索を中断してしまった。
金属が擦れ合う音を聴きながら、ナギは呼吸を整えた。
「開いたぞ。」
「――――――――ありがとう――――――――」
夜にこの扉を開けるのは久しぶりだ。
今度は深く息を吸ってから、少年はゆっくりとハンドルを回した。
ぎいぃぃぃぃぃ………
どきりとする。
もはや親しみさえ感じている扉の悲鳴だが、さすがにこんな場面では心臓に悪い。
真っ暗闇の中で牛達をよけなければならないが、次からはやっぱり裏口を使うべきかもしれない。
緊張しながら見上げた先に、満天の星があった。
風が頬を撫でる。
降るような星。
だけど星以外は何も見えない。
「じゃあ……」
「うむっ。」
青い光を振り返って言葉を交わすと、少年はハンドルを頼りに伝い歩きのようにして扉の反対側へ出た。
これからしばらく、ラスタとは話せない。
ぎいぃぃぃぃぃ……がちゃん。がちゃ。
ナギが無事に小屋の外へと出ると、後ろで扉と鍵が閉められる音がした。
こうなってみると、鍵も悪いことばかりじゃなかった。自分が「ずっと牛小屋の中にいた」ことを、彼らが付けた錠前が証明してくれる。
左を見ると、館は闇に溶け込んでいた。ただ幾つか灯る灯りが、窓と建物の場所を示している。
ひと気は絶えているが、夜行性の動物達の気配はそこかしこでしていた。
闇に踏み出す時自分が他者の領域を侵している無礼者のような気がして、いつも微かに緊張を覚える。夜の住人達の気配に耳を澄ませて、少年は地面に腰を降ろした。
―――――――――――――――下から持ち上げられる感覚。
地面の代わりに何か柔らかい物が体の下に生じる。星以外何も見えないせいで実感はしにくいが、ナギは今、浮いていた――――――――――座った姿勢のままで。
牛小屋の中で何度も練習してきたし、このやり方で実際に何度も館へも忍び込んだ。それでも平静でいられない。今日の行く先は、これまでとは違うからだ。
館の外へ―――――――――――――――――――――――――――
一瞬、僅かに揺れる。
風を感じた。
進み出したのだ―――――――――――――――前へ。
やっぱり夜の「飛行」は結構な恐怖感がある。目の前にどんな障害物が現れても、ナギには見えないのでよけられない。
星だけが見えて、少しすると平衡感覚を失う。どのぐらいの高さにいるのかは分からない。体が星空の中に揺蕩っているようだった。
ナギにとっても、ラスタにとっても、初めて行く距離と方向だった。
―――――――――――――――いや、空中を飛ぶのではなくとも、ここで鎖に繋がれてから、麦畑より遠くに行ったことはナギにはなかった。――――――――四度を除いて。
ばさささっ。
「っ…………!」
その時、突然何かが体を掠めた。
鳥だ。夜行性の。
しまった…………!
反射的に動いてしまって、少年は「足場」から落ちた。
数瞬の落下。
ひやりとしたが、すぐに別の柔らかな固まりが体を受け止めくれた。
「ごめん………」
安堵の息を吐いてから、少年は小声で謝った。
夜の空中を行き交う者達が他にもいるということを、覚えておかないと。
ラスタの返事は今は聞こえない。
星の海の中の飛行は、それからも少しだけ続いた。
気が付くと、体が受ける風の量が随分増えている。竜人の少女が慣れて来たのか、多分速度が上がっている。風がばたばたと鼓膜を打った。
今世界が見えていたら、どんな感じなんだろう――――――――――――。
と。
「っ」
がくんと反動があって、ナギはまた動いてしまいそうになった。かなりの速さで飛んでいたんだろう。速度の変化は反動が起きるくらいに大きかった。
急制動になると危ないな。
やってみて分かることはやはり多い。後でラスタと話そう。
星が翳る。ひんやりとした空気が肌に触れた。草木の匂いが周囲を取り巻いていて、時々がさがさと茂みが騒めく音がした。
これまでとは違う場所にいる。
ぽんっ。
唐突に、青い光が自分より高い位置に現れた。どうやら最初の目標地点に着いたらしい。
「うむう……木の間を運ぶのは難しいな……無秩序だからな……」
幼い声が悩まし気に言うのを聞いて、ナギは少し笑ってしまった。
「先刻は済まぬ。ふくろうにぶつかりそうになった。」
「ふくろうだったんだ。僕こそ動いてごめん。」
言いながら、少年は立ち上がった。相変わらず何も見えないので実感はないが、自分はまだ宙に浮いている筈だ。
すぐに音もなく竜人少女の瞳が遠ざかって行く。自分の「足場」が下がっているのがそれで分かった。
足の裏に何かが静かに触れる。その感触が急に強くなった。
着地だ。
青い光も少年を追い掛けるように下に降りて来た。
鞄に括り付けたランタンを、少年は手探りで手に取った。
服にボタンを持たないヤナ人は、紐を結ぶ技術にはかなり詳しい。
藁を編んだ紐はランタンをしっかりと留めていたが、一ヵ所を引くと容易く解けた。
「ナギは器用だなっ。」
楽しそうに青い瞳に言われて苦笑する。
ヤナ人なら誰でも出来るのだ。
そもそもこんなこと、竜人少女の凄さとは比較にならない。
苦戦ぶりをこぼしていたが、ラスタは枝一本、木の葉一枚ナギに当てなかった。そして今、火を自在に作れることがどれだけありがたいことか。
ランタンにふっと灯が入り、久しぶりに少女の姿に出会う。
「ありがとう」と伝えると、小さな少女は見る者の心まで照らすような眩い表情で笑った。
とうとうここまで来た。
一度深呼吸をしてから、少年は左から右へとランタンで弧を描くようにして周囲を照らした。
幾度も木の葉が降り積もった柔らかな地面。何重にも連なる巨大な木々の壁。人間の瞳には灯りが届く範囲しか見えないが、生命が生まれる季節の森の匂いは、濃密だった。
胸がどきどきした。
この地に売られてから、ナギは一度も脱出を試みなかった訳じゃない。
目の前の物すら見えない暗闇の中を鉄の枷を引き摺りながら、食糧一つ持たずに、四回逃げたことがある。自分が向かったのは北の方角だが、この森はその方角にまで広がっていて、だから今いるのは同じ森の中だ。
一度目も二度目も到底故郷には辿り着けないと感じて、幾らも行かない内に引き返して、自分から家畜小屋に戻った。
三度目も同じだったが、その時だけは遠くまで逃げ過ぎてしまった。
深い森の中で館への戻り道が分からなくなり、故郷の遥か手前で遭難して死ぬ恐怖を感じた。
情けない話だがようやく牛小屋に帰り着いた時、あの時自分は、ほっとしたのだ。
その時も、宝石のような石を握り締めていた。
それからしばらくしてもう一度挑戦してみたことがあるが、その時には引き際が判断出来るようになっていて、早々に切り上げた。
やみくもに脱出してもヤナへは帰れない。
四度の経験で思い知り、それからナギは時を待った。
一人で脱出を目指した時森は真っ暗で、何も見えなかった。
今初めて、あの時に見えていた筈の景色を見る。
あれから四年が経った。
「――――――――――村はどっちだろう。」
「このまま真っ直ぐだ。」
本当は村までラスタに運んで貰った方が早いだろうが、今日は夜の森を歩く訓練も兼ねている。
手付かずの自然の中を夜間に歩く経験が、脱出の前には必要だった。
深く息を吐き、緊張を吐き出す。
「――――――――――――行こう。」
「うむっ。」
ナギが歩き出すと藍色のズボン姿の少女は浮き上がり、少年の背中に回った。
そして小さな少女は二人が移動する時の定位置に納まった。
――――――――――――――――なんだかすごく楽しそうだ。
ナギの肩に腕を回した少女は両足をばたばたさせていた。
「楽しいなっ。」
やっぱり。
手を挙げて行く先を照らし、少年は苦笑した。
領主の館から一番近い村の名前は、クロッススと言うらしい。
麦畑の南側の道は、今歩いている森の外を廻り込むようにして村まで続いているそうだった。
この国の一般の人間達がどんな場所でどんな風に暮らしているのか、ナギは一度も見たことがない。ただ「自分の家」へと帰れる領民達がいつも羨ましかったし、「檻」の外の世界に少年は焦がれ続けた。
村の方角へは、ずっと下り坂のようだ。領主の館は、多分辺りで一番高い場所にある。
足場の悪さに多少苦労はしたものの、ナギはそれ程長い距離は歩かなかった。
村はこんなに近かったのだ。
木々が途切れた。
少年と竜人少女は高台にいた。昼間だったら、ここから村を一望出来たのかもしれない。
海のような眼下の闇の中に、ぽつりぽつりと灯りが灯っている。時間が遅いせいで灯りは多くはない。どれだけの建物があるのかは、よく分からなかった。
体が微かに震える。
この国の人間達は自分の敵で、それは彼らにとっても同じ筈だ。
戦場に降りた気がした。




