172. 大水害と奴隷達
タキの知らない言葉で、短い会話が交わされる。
やがて紺服の男が緑のトンネルの中を潜って、タキの所へとやって来た。
「来い。」
知っている数少ないヴァルーダ語でそう命じられ、背中から追い立てられるようにされて、タキは持ち場を離れざるを得なかった。
と。
訪問者の方へと歩くタキの後ろで、あの男がまた叫んだ。
「助けてくれ!!俺はヴァルーダ人なんだ!!」
「黙れ!!」
長髪の訪問客がやや驚いた表情で騒ぐ男を見やる。
どんな展開を迎えるのかと少しだけ興味を引かれたが、この騒動は呆気なく終わった。
タキの後ろを歩く監視役に何かを告げられるとそれきり興味を失ったようで、訪問客はもう男の方へは視線を戻さなかった。
「ヴァルーダ人であること」は解放の理由にはならない、ってことなのか。
執拗に訴えを繰り返すあの男の事情が、つくづく分からない。
生い茂る果樹の下を出ると、強い日差しが目を射った。
鎖と鉄の車の重い音がする。
果樹のトンネルの外では、運搬担当の奴隷達が足枷と荷車を引き摺りながら行き来していた。皆ちらちらとこちらを見て行く。
結局タキは、訳も分からないまま髪の長い男に引き渡された。
旅の途中ででもあるのか。
すっかり春めいた暖かい日なのに、栗色の髪の男は脛まである丈の長いマントを羽織っていた。
見たことがない種類の人間だと思う。
黄褐色の裏地が付いた白いマントも、金糸で刺繍が施された藍色の服も明らかな高級品で、監視役の男達より身分が上だとはっきりとわかる。
多分20代の半ばくらいだ。
しっかりとした眉や鋭角的な頬の輪郭はちゃんと男性的だったが、それでもこんなに綺麗な男がいるものなのかと驚くくらいに顔立ちが整っていて、背中を過ぎる程に長い髪も、ケチの付けようもなく似合っている。
長い睫毛に縁取られた薄茶色の瞳がタキを見た。
何が起きているのか理解出来ない。
動揺するタキを、謎の男は観察するようにじっと見つめた。
だがそれも数秒だった。
「――――――――――?」
男は視線を上げると、今度はなぜかタキの周囲を見回した。
頭を下げて畏まっているのが無難な場面なのかもしれないが、タキは相手の視線を追って、自分も首を巡らせた。
奴隷として模範的にしていても、報酬は出ない。
果樹の葉の濃い緑の香りと、微かな水の匂いがする。
丘を見降ろすと、広大な荒れ地の向こうに、対岸の見えない巨大な河が広がっていた。大きな帆船がそこに何艘も浮かんでいる。
青空が透けて見える薄い雲が天を覆っていて、今日は変に湿気が高い。晴れとも曇りともつかない天気だが、夏には灼熱と言いたくなる程に日の当たる斜面は、それでも眩しかった。
丘の反対側を流れている川は、あの大河の支流だとタキは聞いている。支流の方の川岸には水車小屋が五軒も並んでいて、大きな石臼が休みなく麦を挽いたり果実を搾ったりしていた。
タキ達が収穫している黄色い果実も丘の反対側へ運ばれた後、舟や馬車で出荷されるか、水車小屋で搾られることになっている。水車小屋で働いているのも奴隷達だ。
その時。
「ヤナ人だと聞いたが、間違いないか。」
耳に飛び込んできたその言葉に驚愕して、タキは訪問者を振り返った。
あまりの驚きで声が出ない。
「間違いないか。」
もう一度尋ねられたが、少年は応えられなかった。
独りごとを除けば、故郷の言葉を最後に聞いたのは半年近く前だった。
ヤナ語……?!ヤナ語だ。なんで。
数拍を置き、ようやくのように少年は頷いた。
まだ声が出なかった。
◇
長髪の男に連れられて、タキは斜面を登っていた。
「お主の部屋が見たい」と言われたからだ。
「部屋」と言われてもベッドが並べられているだけの大部屋に十人単位で押し込まれているのだが、そこで構わないらしい。
奴隷達の宿舎は丘の反対側にあった。
奴隷も監視役も、擦れ違う人間が皆こちらを見る。
何か違和感を覚えながら、タキは男の後ろを歩いていた。
ああ、そうか。
丘の頂上が近付いた頃に、違和感の正体に気が付く。
ヴァルーダ人が一人だけで自分の前を歩いているのが珍しかったのだ。監視役が一人の時、奴らはいつも奴隷の後ろを歩いた。
誰なんだ、この人。
もしかしたらヴァルーダ人じゃないのか。でも監視役の男達は彼より立場が下に見えた。
なんでヤナ語を。
あり得なかったが、ひょっとしてヤナ人なのかと思う程に完璧な発音だった。
今自分の鼓動が速いのは、男の正体が知れないからだけではない。
久しぶりに聞いた母国の言葉が、ある人の存在を思い出させたからだった。
◇ ◇ ◇
仲間から引き離されここに連れて来られた時、タキはまだ13歳だった。
ただ広大な果樹畑と川と、水車小屋と倉庫がある場所。町も村も、近くには見えない。
そこに働く虚ろな表情の奴隷達のあまりの数の多さに最初は衝撃を受け、そして絶望した。あれが未来の自分の姿で、彼らと同じように、自分ももう逃げられないのだと思ったからだ。
しばらく経つと、絶望には深味が加わった。
奴隷もこれだけいると一つには纏まらないのだと少年は学んだ。
ヴァルーダへの憎しみを持ち続けている者もいれば、ヴァルーダ人に取り入ろうとする者もいた。
女性に飢えた男が男を襲う事件も日常茶飯事だ。
ここで女性の姿を見たことはほとんどない。この場所の奴隷は、男だけだった。
13歳だったタキなど、格好の女性の代用だったのだろう。
一度手洗いでごつい男に襲われて危なかったことがあったが、正気を保っていた大人が数人掛かりで助けてくれて、事なきを得た。
その中にカイさんがいた。
ヤナ人だった。
これだけの数の奴隷がいればヤナ人もいるかもしれないとは思っていたものの、実際に出会ってみると、ほっとするより衝撃の方が大きかった。
きっとカイさんも同じだったんだろう。
「子供じゃねーか。」
声を震わせてそう言ったカイさんの瞳には、激しい感情が渦巻いていた。
「言葉が通じる奴隷同士はなるべく一緒にならないようにされている」と教えてくれたのもカイさんだった。だから顔を合わせることは少なかったが、それ以来、彼は何かとタキを気に掛けてくれるようになった。
十年――――――――――――――――――
彼は奴隷狩りに遭ってから十年以上が経っていて、年齢も30を越えていた。
奴隷狩りに遭った時、カイさんは結婚したばかりだった。
まだ二月経っていなかったと言う。
「もう再婚してるかもな……―――――――――――――」
一度だけぽつりと、カイさんがそう呟いたことがあった。
カイさんがどちらの言葉を望んでいるのか分からなくて、その時タキは、何も言えなかった。
カイさんがどこかへ連れて行かれたのは、去年の冬だ。
どこへ連れて行かれたのかは分からない。
頼りになる兄貴分とは、それっきりだ。
◇ ◇ ◇
地響きのような音が聞こえて、丘の頂上でタキは後ろを振り返った。
ごう……………………
周囲の人間達も、一斉に同じ方向を向いた。
対岸が見えない河の色が、茶色く濁っていた。
ばんっ!!!!
爆音がした。
信じられない程に大量の水。
河の上流で水が爆発するのが見え、宙高くまで上がった水の塊が下流へと一気に襲い掛かった。
航行していた船が全て呑まれる。
「うわっ……?!なんだあれ?!!!」
思わず叫んだ。
ここから河までかなりの距離があるが、それでも身の危険を感じる水量だった。
同じことを感じたのだろう。丘の下の方にいた者達が、慌てて斜面を駆け上がって来る。
だが足に枷を嵌められた奴隷達は次々と転んだ。パニックを起こしてしまったのか、転んだ奴隷達は起き上がろうとしてはまた転ぶことを繰り返した。
紺服の男達だけが坂を走っている。
登って来た監視役の奴らを端から蹴り落してやりたい。
丘じゅうで奴隷達の悲鳴が上がった。
怒りに歯噛みした時、あることが頭をよぎり、はっとしてタキは再度振り返った。
栗色の髪の男がそこにいて、やはり目を瞠って爆発する河を見つめていた。
だがタキが見たのは丘の反対側だ。
本流の水があれだけ溢れていたら、あの川だって
ただじゃ済まないんじゃないのか。
水車を動かしている川があの河の支流だと教えてくれたのもカイさんだった。
二つの川に挟まれているこの場所の危なさに、タキはその時になって気が付いた。
その時、丘の反対側でも奴隷達が悲鳴を上げだした。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
河の水位が上がり続けている。
停泊している船も大きく揺れていた。
何かが妙だと思う。
船の甲板に荷物を積み上げながら、カナタはひと月ほど前のことを思い出していた。
ごう……………………
ずっと遠くで空気が唸るような声がした。
顔を上げて、カナタは音の方を見やった。
ばんっ!!!!
少年の瞳に、巨大な水の塊の姿が映っていた。
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