171. 温もりと暗闇
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
ずっと遠い場所で鶏の声が微かにしていた。
その声に引き摺られるように意識が戻り、急激に現実に引き戻されてはっと目を開いた瞬間、闇をつん裂く雄鶏の声が鼓膜を叩いた。
真っ暗だ。
どこだか分からない。
今家を出てあいつらと遊びに行こうとしていて―――――――――
一瞬の記憶の混乱の後、ここが異国の家畜小屋であると思い出してパニックを起こしかけた。
夢を見ていたのだ。
故郷の。
四年分の時間が抜け落ちて、牛小屋に閉じ込められた、最初の日と同じ恐怖が心を襲う。
暗闇。孤独。強烈な臭い。すぐそこに蠢く動物の気配。
どっ、どっ、どっ、どっ……
心臓が破れそうに速くなる。
ゆっくりと記憶が戻り、左腕の中にいる温かな存在に、唐突に気付いた。
何も見えない。
でも温かく、柔らかな存在が静かに呼吸している。
ぎゅっと抱き締めそうになる。
それは堪えて、ナギは右の方の手を暗闇の中で静かに藁布団から引き出した。
乾いた植物が指に絡み、改めて思い知る。
ああ、やっぱり現実だったんだ――――――――――――――――
この場所に、奴隷として売られたことは。
体を僅かに傾けて温かな存在に右手を伸ばすと、ナギは小さな竜の背をそっと撫でた。
規則正しい竜の寝息を感じながら、深呼吸を繰り返す。
少しずつ落ち着きを取り戻し、記憶の混乱がほぐれていく。
ミルは―――――――――――――――――――――――
ミルの体調がまだ戻っていないことを思い出す。
しっかりしろ。
寝惚けていたとはいえ、ミルと出会う前の自分に戻っていたこと――――――――――ミルを故郷へ帰すという目標を一瞬忘れていたことに、怖くなる。
大切な存在を置いて、自分だけ時を戻ってしまったかのような。
なんの夢だったんだろう。
仲間や家族の姿があったことは覚えているけれど、細かな内容はもうよく思い出せない。
みんなで遊ぶ約束をしていて、
「行って来ます」と言って家を出て――――――――――――――――
懐かしい故郷の景色と家族や仲間の姿に会いたくて、消えかけている夢の断片を拾い集める。
コウ。ハナ―――――――――――――――――――――――
ナギの中の弟や妹達の姿は、四年前のまま時が止まっている。
家族は自分のいない四年を紡いだ。
たとえ今すぐヤナに戻れたとしても、失った時間は取り戻せない。
仲間の姿も、四年前のままだ。
生きていてほしい。全員ヤナに、連れて帰りたい。
鶏がまたけたたましく鳴く。
あの声のせいで、一端寝覚めてしまうともう一度寝付くことがいつもとてつもなく難しい。雄鶏だけは、何度絞め殺したいと思ったか。
眠りに戻れずに色々と考えている内に、もっと小さな頃のことも思い出す。
ヤマメの命が危なかったことがあったな―――――――――――――
もう何日もずっとミルの体を心配していたが、昔似たような経験をしたとふと記憶が甦った。
自分を含めて子供はしょっちゅう病気をするものだが、ヤマメは一度命が危ない所まで行ってしまったことがある。
何日も遊びに出て来られなかったヤマメをみんなで心配し続けて、ヤマメの家の前でヤマメのおばあさんに「駄目かもしれない」と言われた時は、全員泣いてしまった。
特にカナタとか、あいつは優しいから、無言でぼろぼろ泣き続けていたっけ。
あの時自分達は、確か6歳とか7歳だった。
それから何日かして「持ち直したらしい」と母さんから聞いた時、膝から崩れそうになった。
体から力が抜ける感覚を、あの時初めて味わった。
ヤマメがやっと表に出られるようになった日は、みんなでヤマメの家の前へ駆け付けた。
多分ヤマメは、照れてしまったんだと思う。
久しぶりに家から出て来たヤマメは、家の前に集合している僕達を見て、「なんかあったの」みたいな表情でにへらって笑って、そしたらタケルが泣きながらヤマメを殴っちゃって、みんなで慌てて止めたんだよな……まさかタケルと病み上がりのヤマメが、いきなり喧嘩を始めるとは思わなかった。
――――――――――――――――生きてるか?
暗闇を透かして四年前の姿のままの仲間達を見つめ、ナギは彼らに、心の中で問い掛けた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
例の男がまた騒いでいる。
「俺はヴァルーダ人だッ!!」
ヴァルーダ語は今もほとんど分からないので最初は何を叫んでいるのかと思っていたが、どうも『俺はヴァルーダ人だ』と言っているらしい。
この男は時折発狂したようにそう叫んで騒ぎ出す。
何人かが振り返って醒めた瞳でその茶髪の男を見たが、もうなんの反応も示さない者も多い。
正直タキもうんざりだ。働かない人間が一人いると、その分の皺寄せは周りにくる。
同じような生成りの服を着せられて足枷を着けられた男達は、掌程の大きさの黄色い果実をひたすら収穫して、足元に並ぶバケツに入れていた。
この果物がなんなのか、タキには分からない。ヤナでは見たことがなかったが甘酸っぱい匂いがしていて、柑橘系の何かなのだろうとは思う。ただ食べるとひどく酸っぱいという噂だった。
緑の葉と黄色い果実が生い茂る樹は広大な丘の斜面を覆い尽くすように生えていて、収穫作業には果てがない。ずっと上を向いて作業しているので腕や頸が痛くなり、作業が終わると腕も頸もいつもぱんぱんだった。
一杯になったバケツを運び出し、荷車に果実を詰め替える者、荷車を丘の下まで降ろす者、そこで保管や輸送のために果実を木箱に詰める者――――――――――皆奴隷だ。
指示された量の仕事を終えるまで、全員食事にありつけない。
「俺はヴァルーダ人だ!!鎖を外してくれ!!」
性懲りもなく男がまた叫ぶ。要所要所に立って奴隷の作業を監視している男達の一人が果樹の中に分け入って来る。そして細い木の棒で騒ぐ男の頬をはたいた。
かなりしなる棒なので骨や歯がやられることはあまりないが、くっきりと痣が残る程度にはあの棒は痛い。
他の奴隷達と同じ、生成りの服と足枷姿の茶髪の男は悲鳴を上げて両手で頬を抑えると、木の下に蹲った。
いい加減分かれよ。
すぐ傍で繰り広げられたその様子を横目で見ながら、タキは顔を顰めた。
男がヴァルーダ人なのは本当なのかもしれないと思う。
監視の連中と男が激しい言葉の応酬をしていたことが何度かある。
どういう経緯なのかは知らないが、同情はしない。
他の奴隷達は、いつもあの男を憎悪を込めた瞳で見る。男が「自分はヴァルーダ人だ」と主張する程。
虐げていた側が虐げていた相手と同じ場所に落ちたのだから、何が起こるか分かりそうなものだ。
男の顔や体の痣は、監視役からの懲罰で出来たものばかりじゃない。
「子供の奴隷がここにいると聞いたが。」
その時そんな声が聞こえて、思わず手を止めて、タキは声の方を見やった。
「子供」と「奴隷」を意味するヴァルーダ語は知っていたので、その言葉が理解出来た。この場所で自分より年齢が下そうな奴隷は見たことがなかったので、「自分のことだ」と思う。
紺色の制服を着た監視役の男と並んで、誰かが立っている。
緑と黄色のトンネルの向こうにその姿を見た時、やや驚いて、タキは小さく目を瞠った。
男――――――――――――――?
いかにも高貴な身分に見える、ひどく顔立ちの整った男――――――――――男だと思うが、真っ直ぐな栗色の髪が肩を過ぎて伸びている。ヴァルーダでもヤナでも、あんなに髪の長い男はタキは見たことがなかった。
周囲の奴隷達も訝しげな表情をして珍しい訪問客に目を向ける。
すかさず監視の男達から叱責の声が飛び、皆すぐに作業に戻った。だがタキだけは、手を止めたまま訪問客を見つめていた。
なんだ―――――――――――――?
紺服の男が指差した先を追ってタキを見付けた訪問者は、数秒の間、ただじっとタキを見つめてきた。
そして。
「少しの間あの人間を借りたい。」
訪問者がそう言うのが聞こえたが、今度の言葉はタキには分からなかった。




