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【第五章開始】竜人少女と奴隷の少年  作者: 大久 永里子
第三章 獣人とひと
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170. 北の地の獣人

◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 ぎいぃぃぃ……


 きしむ扉を引くと、すぐにその反対側でガチャガチャと錠が掛けられる音がした。


 牛小屋ここに鉄の固まりが掛けられるようになってから、一週間が経っている。


 足音が小屋の周りを動く。

 壁の向こうの見えない相手を、ナギは無言で目で追った。


 柵の向こうでくつろぐ牛達を、ランタンの朱いと微かなろうの臭いが包んでいる。


 やがて裏口も施錠された。



 あの日ナギに告げられるまで、ラスタは牛小屋に錠前が付けられたことに気付いていなかった。それを知った少女は案の定かんかんに怒って、翌朝には思わぬことをしてナギをあせらせた。


 夜明け前、小屋の鍵を開け館へと戻って行く男の頭に、麦畑の方から飛んで来た何かが当たってこーんと小気味よい音がした時は、男も驚いただろうが、ナギもぎょっとした。風に飛ばされて来たていではあったものの、明らかに不自然な勢いだった。辺りはまだ暗かったが地面に落ちてからからと跳ねた物の大きさと音でどんぐりだ、とは思った。

 あの勢いでは、どんぐりだとしても痛かっただろう。


 男の悲鳴を聞きながら思わず振り返ると、小屋の入り口に、保護者から目を逸らす竜人の少女が立っていた……。



 そんなこともありはしたものの、ラスタの行動や判断は大抵の場合、大人みたいに的確だ。扉に錠が掛けられるようになってからは、「錠前係」が小屋を離れるまで、少女は姿を現さない。


 自分で閉めた扉の前に立ったまま、ナギは遠ざかって行く気配にじっと耳を澄ませていた。



  七、八、九…………



 緊張を紛らせるように、遠ざかる足音を数えた。



 そして。



 ぽんっ。



「!」

 息を飲んだ。



 竜人の少女は目の前に現れた。まだわずかに残るの色とランタンの灯りを絡め取り、長い髪がきらきらと輝いている。今日の「服」は水色のズボンで、たくさんのドレープがドレスのように華やかだった。

 いつしか宙から降って来ることに慣れ過ぎていたようで、地面に足を付けて現れたラスタに却って驚いてしまう。


 夜を迎えようとしている小屋の入り口で、少女は表情を強張らせ、無言でうつむいていた。



  やっぱりラスタだった。



 ほとんど確信はしていたけれど、その表情を見てそう思う。



 こんな表情かおをさせたくなかった。



「――――――――――――――ごめん。あんな思いさせて。」

「ナギは何も悪くないっ。」



 あの日と同じ会話だ。


 ラスタにまた同じ思いをさせている。


 こちらを見上げた青い瞳に涙が溜まっていた。今何を言えばいいのか分からない。

 

 と。



「ナギとミルが危ない時に、何もしないでいるのは無理だっ。」



 涙声でそう言われた時。ナギは胸にきりで突かれるような痛みを感じた。


 自分だって、ラスタやミルが危険な時に動かずにいるのは無理だった。



  自分がすぐに手を下さなかったから。



 鎖が重い。


 ラスタの前に屈むと、あの日と少しだけ違った。

 あの時青い瞳は、屈んだナギのと高さが同じだったのに。

 でもあの日と同じに、大きなからは今にも涙が零れ落ちそうだ。


「ありがとう……でも、あんなことさせてごめん―――――――――この国の人間と戦わなければいけないのは、本当は人間ぼくだから。」


 あの日も多分、同じようなことを言った。だが今日は、竜人の少女は微かに目を見開いて、それからしばらく考え込んだ。


 やがて竜人の少女は、呟くように「分かった」と応えた。

「ナギとミルが本当に危ない時しか手は出さない。」


 きゅっと唇を引き結んだ、それが竜人少女の結論で、それはどちらにとっても納得しやすい言葉だった。

 小さな少女は、今日は涙をこらえてくれている。


 胸が痛い。


 少年がうなずくと、少女が両手を差し伸ばした。



 大事なことを忘れていた。



「……ただいま。」

「……『おかえりなさい』だ。」



 牛小屋の入り口に膝を付いたまま、少年は少女を抱き止めた。肩に回された小さな腕にぎゅうっと、力が籠もる。長い髪がさらさらと少年の頬を撫でた。



  早くここを出なきゃ駄目だ。

  なのに――――――――――――



 少女が体を起こし、少年が見上げる。喉が絞まるように感じて、少年は唾を飲み下した。


「ラスタ――――――――――ミルは………」

「………あの女中の部屋に戻った。今もそこにいるぞ。」

「そう―――――――――――。ありがとう。」


 まだうずく右手に、少年は視線を落とした。



 あの直後、水場は酷い有様だったし、野菜の皮剥きもまだ終わっていなかった。

 タバサは腹立たし気に何か毒づいていたが、倒れ掛けたミルをそのまま働かせようとまではしなかった。

 ミルがタバサに台所から連れ出されて行く時、付き添うことを許されなかったナギは、秘密の言葉で囁いた。


「……もしいたら、ミルを追って、何かあったら報せてほしい。」


 すると水場の周りを埋め尽くした物の中で小さな鍋が少しだけ転がって、かん、と微かに音を立てた。


 ラスタだ、とその時にもう確信はしていた。


 それから竜人が何かを報せに来ることはなく、だからある程度安心はしていたのだが。



 ナギもそのあと右手に包帯を巻かれたが、水仕事をするので、血が止まってすぐに自分で取ってしまった。塗られた薬草の臭いももうほとんどしない。


 掌の赤い筋を見て、この傷を最初に縛ってくれたミルの姿を脳裏に描く。



  ミルは夏には間に合わないかもしれない。



 胸が圧迫されるような苦しみの中で、そう思う。



 そしてあの雲。



 突然の知らせはなんだったんだろう。

 結局あれからハンネスもアメルダも、もう一度現れることがなかった。

 今日のところは殺されずに済んだが、ハンネスがどういうつもりでいるのか、それも分からない。


 ふいに小さな少女がぺたんと座った。


 その場所が意外で、ナギはちょっとだけ驚いて顔を上げた。

 大きな瞳が、ナギのと同じ高さにある。

 ラスタはよく空中に「座る」が、こんなに低い宙に座った姿は見たことがない。


 背が伸びた分だけ一緒に伸びた長い髪が、地面の少し上で金色の花のように広がっている。


「朝鐘が鳴っていただろう?」

 不思議な高さで向き合った竜人少女にそう言われ、少年は目をみはった。早朝の突然の訪問者のことを、ラスタも知っていたのだ。

「あれを聞いて館に戻ったんだ。」


  そうだったのか――――――――――


 狩りに行っているとばかり思っていたラスタは、だからあの時台所にいたのだ。


 だが竜人の少女は、台所に真っ直ぐに来たのではなかった。


「ナギ――――――――――。あの獣人達は、トラム・ロウを氾濫させたらしい。かなりひどい水害が起きてる。」


 少女の言葉に、少年ははっとした。硬い声と表情で、幼い少女は続けた。


「館の人間が一人、あの雲を調べに行ったみたいだが、雲に近付けずに引き返して来たらしい。鐘を鳴らしていたのはそのヴァルーダ人だ。」

「―――――――――――――――――!」



  やっぱり氾濫させたのか……!どこの国が……!



 あの雲が河に掛かっているとラスタに教えられた夜から、想像はしていた。


 でもどの国ももう何百年も、ヴァルーダの横暴にただ耐えるしかなかったのに。

 ヴァルーダに挑む国があるなんて。



  戦争が起きるのかもしれない。



 声を失って少年は虚空を見つめた。



 河か山を越えない限り、自分達は故郷に帰れない。



  越えられるのか。この夏に。



 竜人の小さな少女が、人間の少年を無言で見つめている。



 窓の向こうで闇が落ちる。明かりはランタンだけになり、牛小屋は朱く染まった。





 見えていた希望が、遠ざかって行くのを感じた。









◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 篝火と窓からの明かりが巨大な生き物達を照らしている。

 彼らの足元の暗闇で人間達が動き回っていた。



『くるるるるるる……………』



 低い鳴き声が、闇を底から揺さぶる。その声は、人間達の腹や胸にずん、と響いた。


 四方を囲む窓と変わらぬ大きさの金色に光るが横を向き、仲間を見た。瞳のぬしの姿は、ふくろうに似ていた。


 その視線の先にいた、巨大なとかげに似た生き物が前脚を降ろすと、重い音と共に地面が揺れた。

 一瞬だけ足を止めて揺れをやり過ごした人間達が、すぐにまた慌ただしく動き出す。


 明かりの数が絞られているせいで、色はよく分からない。九体の獣人はそれぞれ異なる姿をしていたが、中庭は闇色に包まれていて、わずかなに照らされると、獣人も人間も朱く染まった。


 四角い暗闇の中を大きな荷車が動いている。人間達が「とかげ」の前まで荷車を運び込んだ。

 中に積まれているのは野菜や肉だ。野菜と鳥の肉はほぼ丸ごとに近い形で積み込まれている。


 「とかげ」が長い首を伸ばして何かの肉を咥えた。



 巨大な姿で体力を消費すると、それに見合う分だけの食料を容れないと餓死してしまう。



 食事や睡眠が必要なのは獣人も人間と同じだった。

 超常の力は休みなく無限に使える訳ではない。



 中庭を囲む建物の窓から、青年はその様子を見降ろしていた。開け放した両開きの格子窓から夜風が入る。

 暑くもなく、寒くもない。

 収穫の季節を間近にした、ただ濃密な春の匂いがした。


 背中までの長い金色の髪に風が触れてゆく。


「交代だな。」


 陽気な声がして振り返ると、赤茶色の巻き毛の青年が立っていた。



「体は持ちそうか?」

「これで恩返しが終わると思えばなんということもない。」



 巻き毛の青年は陽気にそう応えると、向かいの建物を見やった。

 二人の青年がいる三階の廊下より一階ひとつ高い場所の向かいの窓に、ヤナの国王の姿がある。やはり庭の様子を見つめていた。


 中庭を囲む建物の中の灯りも絞られている。四階の窓に灯りが点いている場所は少なく、その姿は見付けやすかった。


「お主はまだ去らぬのか?」

 巻き毛の青年が、視線を隣に戻して尋ねる。

 金色の髪の青年は、じっと地上を見降ろした。


「…………見届けたい。」

「…………。」


 茶髪の青年はそれ以上は問わず、ただ黙って微笑んだ。



 ぽんっ。



 小さな音がして、巻き毛の青年の姿が消える。




 しばらくすると、眼下の庭で「とかげ」の隣に別の巨体が現れた。新たな獣人はわにに似ている。




 ず………ん………。




 春の闇の中、空中に突然現れたその獣人が地面に脚を付くと、また地響きがして建物が揺れた。




『くるるるるるる……………』




「ふくろう」が再び鳴いた。


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