169. その秘密
ハンネスはしばらく蹲っていたが、やがてヨロヨロと立ち上がった。
「ハンネス様⁈」
跡継ぎ息子の顔色は蒼白だった。
これまで大病らしい大病はしたことがない。そんな体に突然襲い掛かった、意識を失いそうになる程の激しい胸の痛み。
もしかして自分は長くないのでは。
そんな思いに捉われて、ハンネスは愴然としていた。
「ハンネス様!」
「……部屋で休む。」
「歩かれて大丈夫でございますか⁈」
奴隷を斬り殺す気持ちなど、完全に失せていた。主と同じ程顔色を青くしている養育係を一瞥だけして背中を向けると、ハンネスはフラフラと歩き出した。
クライヴがその右側、ジェイコブが左側に付き添う。
少年と少女の奴隷は息を詰め、歩いて行く主従を見守った。
今ハンネスの心臓は止まりかけたか、ことによると一瞬止まったのかもしれない、と思う。
それがどのように体に影響するものなのか、ナギには分からない。
少年の手から血が落ちる。
「………」
殺そうとすら考えた相手だが、今だけは、ナギは領主の息子の回復を願った。
「ジェイコブ、このことは口外するな。」
「ハ……ハ、ハイ!」
主越しにしわがれた声に命じられ、ジェイコブは急いで二回頷いた。年輪が刻まれた白髪の男の低い声には、殺気に似たものが籠められていた。
クライヴはこの騒動を知られるとまずいと判断したらしい。
「病気」がまずいのかもしれない。
12歳で奴隷狩りに遭ったナギの知識は多くはないが、上流階級の家で跡継ぎに病気があるのは、多分どこの国でもまずいだろう。
自分の持ち場に留まるために、料理長は出口の手前で足を止めた。
ハンネスは振り返りもせず、数分前に殺そうとした奴隷のことなどもはや忘れているかのようだった。
と、主人の足元を守るようにその半歩先を歩いていたクライヴも出口目前で立ち止まった。半ばやむを得ず、ハンネスもそこで立ち止まる。
白髪の男が首を巡らす。その瞳にも殺気めいたものが宿っていたが、視線の先はナギではなかった。
「アメルダ様。ご同行を。」
アメルダの顔色がさっと変わった。
そもそも「妻」という立場を考えれば言われるまでもなくそうすべきだっただろうが、アメルダには全くその気がなかったようだ。
「おい。」
咎めるような声を上げた夫の方も、それを望んではいないらしい。「余計なことを言うな」という言外の言葉がありありと聞こえるかのようだった。
「お前ごときが私に指図してよいと思って?」
怒りを滲ませ、若夫人が言った。
身分の違いははっきりとしていた。だが老臣は一切の動揺を見せず、低く掠れた声で主の妻に言い返した。
「ハンネス様に万一のことがあった時、行く当てをお持ちですか?」
新妻が、表情に激しい怒りを見せる。思わぬ言葉に、夫の側は困惑していた。
「マンイチ」とか「イクアテ」とか、知らないヴァルーダ語が混ざっていたこともあり、クライヴのその言葉が示唆することが、この時のナギにはよく分からなかった。
見ている側が緊張するような睨み合いの後、折れたのはアメルダだった。
赤茶色のタイルの上をドレスを蹴立てるようにして若夫人が歩き出し、その後ろで黒い服の女が無表情に勝手口の扉を閉める。
あの花嫁はもしかして、竜人の存在に気付いているのでは。
自分達の横を通り過ぎて部屋を横切り、夫の方へと向かうアメルダと、主の後に付き従う女中を見つめながら、ミルはそんな恐怖を感じていた。
朝食の支度が中断したまま随分な時間が経っていて、竈の火が無駄に燃え続けている。
老臣に付き添われ、若夫婦は無言で台所を出て行った。
給仕の担当者が頻繁に出入りするため、台所の両開きの扉は夜間以外、ほぼ一日中開け放たれている。
一番後ろを歩いていた女中だけが出口の前で立ち止まり、一度振り返った。
「右手を手当てするよう言っておきましょう。」
まだ小刀を握っている少年の右手をちらりと見やってそう言うと、女は肉切り包丁をそこにいた小太りの男に渡した。そして主を追って、黒い服の女も去った。
結局、「大事件が起きた」という以外、突然の知らせの内容は聴けなかった。
何はともあれ、命は助かったのかもしれない。
少年と少女は、硬い表情で寄り添っていた。
「―――――ナギ。手が……。」
「――――――――――――手当てしてくれるって。」
女中がそんなようなことを言ったと思えたのは間違いではなかったらしい。
ヴァルーダ語の答え合わせをして貰ったミルは頷いて、傷口を縛る布を探して水場の方を見やった。
誰かがそう命じない限り、奴隷の怪我や病気が手当てされることはなく、道具や薬も与えて貰えない。
ナギの怪我が無視されなくてよかったとは言え、手当てまでどれだけ待つことになるのかは分からなかった。
「ミル。」
「おい。」
泥棒でもここまではしないと思うくらいに物が散乱している水場の方へと、鎖を鳴らして少女は歩いた。
裏返った網籠の上に落ちていた白い布を見付けて拾う。
台所で使う布を洗濯しているのはミルや女中達なので、これが洗濯済みなのは確かだ。
床に直接着いていなかったから、綺麗だろう。
「おい勝手なことをするな!」
「ミル!」
台所で人死にが出掛けた直後で虚脱しているのか、ジェイコブの喚く声も弱々しい。
命令に従わず、作業台の反対側のナギの方へと戻ると、ミルは躊躇うナギの手を取った。深手という程ではないと思うが、ナギの掌や指からの出血はまだ止まっていない。
ナギは今殺されかけたのだと改めて実感し、今更ながらに震えがくる。
先刻のあれはラスタが………?
尋ねたかったが、声が出ない。
竜人の女の子は今どこにいるんだろう。
「おい‼」
料理長の怒声が少し強くなる。
ナギは手を引っ込めようとしたがミルはその手を離さず、少年の血を拭き取り、傷口を縛った。
その時、空気を引き千切るような喚き声がした。
「――――――ちょっ……なんなのよこれはッ!!?」
タバサが台所の入り口で目を剝いていた。
やっと戻って来たのだ。
「ちょっと何が起きたのよッ?!!」
詰問口調でタバサが怒鳴る。
水場に仕舞われていた筈のありとあらゆる台所道具か床に落ちていた。これを片付けるのは大仕事である。
見ると野菜の皮剥きもまだ終わっておらず、二つの桶と丸椅子の間に残りの野菜が積まれたままになっている。その仕事を担当している奴隷の娘は、とっくに畑に行っている筈の奴隷の少年と、作業台の向こうになぜか並んで立っていた。
小太りの男は気圧されるように数瞬言葉を探していたが、最後には渋面をつくって吐き捨てた。
「知らねーよ。」
「………なんだって?」
男の言葉に同僚が絶句する。
このままではミルが面倒な目に遭いかねない。
「ハンネス様が落としました。」
「おいッ!!」
「なんだって?!」
二人の料理人がバッとこちらを向く。少年は静かに付け加えた。
「口外するなとのことです。」
その一言で納得したらしい。
顔を青くして口をつぐむと、タバサはそれ以上何も言わなかった。
と。
少女の体がふらりと揺らいだ。
「ミル!」
膝を折りかけた少女の体を、少年が抱き止める。
部屋の中を走り、ナイフを握り締めて叫んだ。
やっとベッドを出られるようになったばかりだった少女には、限界だった。
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