168. 血と死
「ナギ!!逃げて!!」
震える手で、ミルは小さなナイフを握り締めていた。
自分の知らないひと月の間に一体何が起きていたのかと混乱する程、ミルにはハンネスの怒り方が常軌を逸して見えた。
正気じゃない―――――――――――あの包丁で、本当にナギを斬ろうとして
いる。
ガチャッ、ガチャガチャンッ!
水場からたくさんの物が落ちて、激しい音を立てる。
鍋や布巾や、水場はその上に造られた棚や、壁に並ぶフックに仕舞われている台所道具でいつも溢れそうになっていて、大きな刃と柄をそこに引っ掛け、ハンネスはもたついていた。
「ミル!よさねーか!」
ジェイコブがあわあわと自分を止めようとするのが、少しだけ意外だった。
自分がここに立っても、多分時間稼ぎくらいにしかならない。
でもなんとか逃げてほしい。
ナギだけでも。
ヤナへ。
「ミル!!」
突然、左から強く手首を掴まれる。
「ナギ!!」
少女は目を瞠って少年を見上げた。
勝手口を出ようとしていた筈の少年が、横にいる。
逃げてほしかったのに。
ナギの手に力が籠る。またナイフを取り上げようとするナギに、ミルは今度は抗った。
だが数秒後には自分の頑なな行いを、少女は激しく後悔した。
ぱっと赤いものが散る。
ミルからもぎ取るようにナイフを奪ったことで、ナギは右手を切っていた。
「ナギ!!」
「ミル!離れて!」
腕半分程もの長さのある肉切り包丁が大匙や籠に当たって、また幾つもの物が床に落ち、大きな音を立てている。
「くそが!」
悪態を吐きながら、領主の息子はまだ手間取っていた。
ナギにもハンネスの怒りようは異常に思えたが、もうそんな疑問を追究している段階じゃない。
「ナギ!!駄目、逃げて!!」
ミルに自分の傍から離れてほしいと思うが、間に合わない。ナギは結局、ミルの前に出た。
この小さなナイフで、ましてや鉄の紐に縛られた足で、あの大きな刃と渡り合えるとは思えない。
でもそれだけではなかった。
たとえこの場を切り抜けられたとしても、領主の息子に刃を向けた時点で、もうただでは済まない。
助かってほしかった――――――――――ミル一人でも。
「ちょっと、冗談でしょ。」
二人の後ろで、花嫁が乾いた声を上げた。
狂気じみた表情で遂にハンネスが振り返った時。
心の片隅でナギは死を思った。
ラスタ――――――――――――――――――――――――――!
ミルのこと。仲間のこと。
ラスタに後を頼みはした。
でもあれは万が一の時の、最後の頼みの綱としてだ。
本当は竜人の少女に、そんな負担を背負わせてはいけなかった。
死んだら駄目だ。
ハンネスを殺してでも、アメルダを人質に取ってでも、生き延びなきゃ駄目
だ。
小さな刀を握り締め、少年は男を睨んだ。
その刹那。
がっ、しゃあああああああぁぁぁぁぁんっ!
―――――――――――――――――――えっ………?
ハンネス以外の全員が目を瞠った。
領主の息子が床に倒れている。
床の上をがらがらと雑多な物が転がった。
―――――――――――――包丁が引っ掛かった?
それとも振動で?
ハンネスが振り返った瞬間に、水場から一斉に落ちた物が雪崩のように彼の背中を襲っていた。
鍋や籠に埋もれているハンネスを、全員が呆気に取られて見つめる。
一瞬の静寂の後。
「あぁッ??!」
上体をがばりと起こし、領主の息子は水場を振り返った。背中に乗っていた鍋が落ちてまた派手な音を立てながら転がって行く。
水場の収納からはほとんど全ての物が落ちていたが、振り返って眺めてみても原因が分からない。
衆目の中台所道具に埋もれてすっ転ぶという無様な事態は、男の怒りを倍増させた。
ハンネスは歯ぎしりしながらもう一度前へと向き直った。床に散らばる野菜や鍋を、怒りのままに手当たり次第に掻き回す。
「あん?!」
これだけ物が散らばっていても、あんなに大きな物が完全に埋もれる筈がない。
だが肉切り包丁が見当たらなかった。
我を失いそうになりながら手と首を巡らせ―――――――――――――ようやく気が付く。男の顔から血の気が引いた。
硬く強張った眼差しで、奴隷の少年が足元を見つめている。
少年が見ている物をハンネスは机の下から目にした。
鈍く光る大きな刃が、ナギの目の前に転がっていた。
奴隷の少年と領主の息子の瞳が、二つの作業台越しに合った。
少年の右手から、ぽたりと血が落ちる。
その時。
「ハンネス様⁈」
台所にしわがれた声が響いた。
クライヴだった。
姿が見えなくなった主人を捜していたのだ。だがクライヴは入り口から一歩の場所で、思わず立ち止まった。
二つ並んだ作業台の向こうに、奴隷の少年と少女が立っていた。
少女を庇うように立っている少年の右手にナイフがある。その手を少年は降ろしていたが、何があったのか出血している。そして足元に、家畜を捌く肉切り包丁が落ちていた。
二人の奴隷の後ろには、やはりいつの間にか姿を消していたアメルダとヒルデがいた。外に出ようとしていたのか、勝手口の扉は開いている。
聞こえていた大きな物音の出所を探して見回すと、水場の周りが惨憺たる有様になっていて、主はその中に座り込んでいた。
一目では、到底理解出来ない情景だった。
「何事だ!!」
老人が二人の使用人と奴隷達を怒鳴り付けると空気がビリビリと揺れ、料理長が太い体を縮こまらせた。
だが今起きていることが理解出来ていないのは、ナギとミルも同じだ。
応える声がない中、一人だけ音もなく動いた者がいた。
いつ隣に来たのか、ナギが気付いた時には、黒い服の女がナギの足元から刃物を拾い上げていた。
はっと手を出し掛けたが、ナギは思い止まった。
賭けだ。
今ハンネスとアメルダは明らかに対立している。
若夫人の女中から無理矢理刃物を奪えば大問題となり、取り返しが利かない。
敢えて刃物を渡すという危険な判断に、だが心臓が痛くなる。
黒い服の女は肉切り包丁を左手に持つと、刃先を下に向けた。そしてようやく、人間的な温度のない声が老臣に応じた。
「ハンネス様が流しの物を落とされたのです。」
「何………?」
表情が乏しい女の言葉にクライヴが困惑した時、ハンネスが瞳を怒らせて立ち上がった。
「おい!それを寄越せ!」
「ハンネス様……?!」
その言葉は、クライヴにおおよその経緯を察知させた。
鉄の枷を付けられた少年と少女の表情が凍り付く。
領主の息子は調理道具を踏み潰しながら前へ出た。
「早く寄越せ!!」
二つの作業台の間を通って、ハンネスは黒い服の女中に迫った。だが得体の知れない女中は跡継ぎ息子の命令に逆らい、逃げるように後ろへと下がった。
「ヒルデ、急いで!」
アメルダがその時急かすようにそう言い、その言葉が裏目に出た。
激高したハンネスが、飛び掛からんばかりの勢いで妻の女中に手を伸ばす。
「ハンネス様、お待ちを!」
刃物を持つ相手に対する主の不用意な行動を見て、クライヴが慌てふためく。主従はこの時、もう一つの刃のことをほぼ忘れていた。
包丁を取られたらまずい……!
出血する手で、ナギはナイフを握り直した。少年が自分の心を殺すようにして覚悟した時。
ガタンッ!
ナギとミルの真横に近い場所で、突然ハンネスが倒れた。
両膝を付き、左胸を押さえ、領主の息子が呻いている。
「ハンネス様、いかがなさいました?!!」
そっくりの光景を、少年は見たことがあった。
やっぱりそうだったんだ―――――――――――――――――――
息を飲み、ナギはうずくまる領主の息子と主の体を支えようとする老臣を見つめた。
最初は、あの夜が再現されようとしているのかと思った。だがハンネスの苦しみは、あの時のクライヴよりも長く続いた。
「ぐぁぁぁぁぁ……」
掠れ声を上げ、ハンネスが崩れ折れる。
「ハンネス様ッ?!!ハンネス様……!!」
主の名をクライヴが幾度も叫んだ。ナギの隣でミルが茫然としている。さすがにジェイコブが体を揺らして駆け寄って来た。
ハンネスはまだ苦しんでいた。
しかしそれも数瞬で、すぐに呻き声が消えた。身悶えるようにしていた体から力が抜けていく。ナギははっとした。
「駄目だよ、いけないっ!!」
少年が叫んだ直後。
一瞬絶命したようにすら見えたハンネスが、再び低く呻き出した。
まさか――――――――――――――――――――――――――
少年のその言葉が理解出来たのは一人だけだった。
同じ言葉を持つ少女が少年を見つめると、少年は硬い表情で天を仰いでいた。
ここにいるの――――――――――――――――――――――――?
主を助け起こした白髪の男が何かを叫び続けている横で、少女はそっと周囲を見回した。
そして無表情な女中と、倒れている男の妻の姿を後ろに見た時。
予想外のアメルダの表情にぞっとして、動けなくなった。
花嫁はナギを見ていた。
興奮で上気しているかのような美しい顔に微笑が浮かんでいる。
凄艶な微笑だった。




