166. 凄惨な知らせ
「おいおい……。」
低い声で呟いたのはジェイコブだった。
あの異様な雲の存在が脳裏をよぎっていたのはジェイコブだけではない。
ナギは咄嗟に振り返り、ミルの無事を確認していた。はっと息を飲み、ミルは自分を振り返った少年を見上げた。
自分が倒れていた間に何かがあったのだ。
急な知らせが来たからというだけではナギの今の反応は説明出来なかった。ほぼ一カ月を寝たきりで過ごしていたミルは、この間にナギや館に起きていたことを知らない。だが少年や料理人達の反応が示唆していることを、少女は敏感に掴み取った。
ガン、ガン、ガン、ガン………
鐘がまだ鳴り続けている。
ミルが無事だと理解すると、ナギはすぐに前へと向き直った。黒い服の女中がいる台所の入り口―――――玄関と門があるのはそちらの方角だ。
館の門は日中は開け放たれているのだが、来訪者は開門より早く到着してしまったらしい。
人の家を訪ねるには早過ぎる時間と、鐘の音の強さと慌ただしさが聴く者達を不安にさせた。
いい知らせとは思えない。
誰かが門まで応対に出たのだろう。
その時、ようやく音が止んだ。
生気の乏しい表情に変化は一切なかったが、さすがに訪問者が気になったのかもしれない。黒い服の女が踵を返した。それを見たタバサの頬が一瞬痙攣する。次の瞬間、「負けてはならじ」とでもいうような勢いで、タバサも台所を飛び出て行った。
気になって仕方がないのはナギも同じだったが、台所からではどんなに耳を澄ませても、門や玄関で交わされる会話は聞こえない。
あの女中が立ち去っただけでも良かった。
巨大な不安の中でそう思い、もう一度、少年は後ろを振り返った。
取り残された台所の責任者が竈の前で立ち尽くしていた。卵料理に取り掛かっていいものか、判断に迷っているらしい。
ミルとナギは無言で互いを見つめ合った。
「……何かあったの。」
小太りの料理人に聞き咎められるかもしれなかったが、ミルは思い切った。出来る限りの小さな声で、囁くように少女は尋ねた。
ひと月近く世界から遮断されていた少女の不安を感じ取り、ナギは目を瞠った。
答えたかったが、ジェイコブに気付かれない程の短い言葉ではとても説明出来ない。
声を出さずに、少年は少女にただ深く頷いた。
◇
「何事?」
末の娘が爪先立ちながらそう言った。
前菜を食べている途中だったブワイエ一家は席を立ち、家長を中心に窓の前に集まっていた。
左手で馬の手綱を握り、右手で鐘を打ち鳴らしている男を父親と窓越しに見たハンネスは、やや意外そうな表情をした。
「早かったな。」
「ぼんやり」と表現したくなるような息子ののんびりとした言いようを聞きながら、父親の方は、その状況に多少疑問を抱いていた。
早過ぎると思っていた。
鐘を鳴らしているのは館の使用人の男だった。ヘルネスに命じられて、数日前に早馬で領地を出た男だ。
そうこうする内に別の使用人の男が窓の向こうを横切った。門を開けに向かったのだった。
鐘の音がようやく止んだ。
ヴァルーダでは、定められた街道に沿って一定区間ごとに早馬が置かれている。巨大な王国の急ぎの知らせは、馬を乗り継いで休まず走り抜ける使者によって届けられていた。街道が整備されていることもあり、国の端から端まで驚く程に速く知らせは届く。馬の用意は、各地の領主に課されている義務だった。
だがここ数年は王都からの急使などほとんどなく、ヘルネスにとっては早馬は、無駄に金を食っているだけの存在だった。本来の用途からは外れていたが、だから今回、遊んでいる馬を使ったことに罪悪感はなかった。
地平に貼り付いている異様な雲の下で何が起きているのか、ヘルネスは館の使用人を確認に向かわせていたのだ。
朝に到着したということは、男は各地の馬を夜通し乗り継いで戻って来たのだろう。
やがて一家の朝食の席に、帰って来た男が姿を現した。
「まあ……。」
旅の汚れも落とさずに食事場所に現れた男に、ヘルネスの妻が顔を顰めた。
男の足から泥が落ちた。血の気の引いた顔をした男は、足がもつれそうな速足で領主の前へと進み出た。服も髪も汚れて乱れたままだった。
自分の席に座り直していたヘルネスは、戻って来た男を動揺した表情で見上げた。
あの雲の正確な場所は、館から見ているだけでは分からなかった。それにしても男の帰りが早いと思えたが、理由はすぐに明かされた。男は雲の傍まで辿り着けなかったのだ。
「壊滅状態です!辺り一帯全て水没しています!どこまで行っても陸がなくて、最早海です!水の中は死体だらけです!どれだけの領地が水没したのか、どれだけの人間が死んだのか分かりません。雲に近付こうにも道がありません!」
喘ぐような声で告げられた想像を超える報告に、領主一家は青ざめた。
確認出来なかった雲の場所の予測だけは付いた―――――――――理由も、これが国王の指示であるのかも分からなかったが、獣人達がトラム・ロウを氾濫させたのだ――――――――全員がそう思った。
ふと見ると、ダイニングルームの入り口に多くの人間が集まっている。
その中にアメルダがいて、ハンネスは思わず相手を睨み付けた。
新婚夫婦は未だに寝室を共にしていない。
最近ではアメルダは、ブワイエ家の食事の席にすら現れなくなっていた。
こんな時だけ一家の一員であるかのように、後ろにヒルデを従え、アメルダは堂々と部屋に入って来た。その顔が少しだけ強張っている。
ゴルチエ領は、トラム・ロウに接していた。
◇
ナギはゆっくりと朝食を食べていた。
本当はほぼ食べ終わっていたが、何か少しでも話を聞けるかもしれないと、タバサの帰りを待っていたのだ。
ミルの近くにその分だけ長く留まれることもあり、先延ばせるだけ先延ばすつもりだった。
食事の支度を中断させられているジェイコブも動揺してナギのことを忘れているのか、今日は怒鳴って来ない。
一体誰が、なんの知らせを持って来たのだろう。
最後の数口だけ残して手を止めたまま、ナギは扉の向こうの様子に耳を澄ませていた。
と。
足音と、息を飲む気配。台所の空気が一気に緊張したのを、少年は肌で感じ取った。
「わ………………若奥様?!」
ジェイコブがもごもごと言ったのを聞いて、ナギは弾かれたように立ち上がった。
がちゃっ!
少年が扉を跳ね開けると、青ざめるミルの前に、黒い服の女を連れたアメルダが立っていた。
胸が冷たくなり、思わず叫んだ。
「ミル!!」




