165. 突然の知らせ
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
収穫の時季が近付いている。
早く仲間を見付けないと。
結局、ほぼひと月の間足踏みしてしまった。
馬小屋を掃除して三頭の馬達に餌と水をやり終えると、ナギは急いで小屋の外に出た。
敏感な馬達が人間の忙しない気配に反応して、少し苛立った様子を見せる。一頭が鼻を鳴らし、蹄でカッ、と一度だけ地面を打った。
ナギはいつもよりだいぶ急いでいた。
だが少年は、その方向が見える位置では一端立ち止まった。
少年の足元で常にうねっている鉄の鎖も、折り重なって動きを止める。
じゃらっ……。
丘の緑が朝陽を浴びて輝いている。光の色も匂いも、朝の空気はもうはっきりと春を感じさせた。
だがそこに、不吉な影が落ちている。
「一体なんなんだよ………。」
地平を見つめている館の男が、怯えたように独り言ちた。
ナギも見つめるその方角に、巨大な黒い雲がある。
一週間、同じ場所から動かない巨大な雲が。
『獣人達は北にいる』―――――――――――――――――――
あの夜のラスタの言葉は、少年の頭から離れない。
不吉な予感で、ナギの胸は苦しくなった。
同じ場所に貼り付いている異様な雲は、館の人間達も、麦畑の村人達も緊張させていた。
皆「獣人の仕業だろう」とは噂し合っている。
田舎領地にはこれまでに獣人を見たことがある者も、獣人の「超常の力」を見たことがある者もほとんどいなかった。それでも誰もが「獣人の仕業」と結論するしかないくらい、動かない雲ははっきりと異様だった。
あの下が今どんなことになっているのかは、ブワイエ領ではまだ誰も知らない。
鳴り止んだ鉄枷の音で少年奴隷が自分の後ろに立っていることは、当然分かっていただろう。
奴隷を見やりながら振り返った男は忌々し気に少年を睨み付け、そのまま何も言わずに館の方へと去って行った。
多分、ヘルネスの指示なのだろう。
ここ数日、毎朝男の使用人の誰かしらが、動かない雲を確認しに馬小屋までやって来る。ブワイエ家の館は丘の東側の斜面に建っていて、館の他の場所からだと、北西のあの方角は見えないのだ。
皆事態が何ごともなく過ぎ去ることを願っているのだろうが、人々の期待に反して、何度朝を迎えても、巨大な雲は地平線の上に留まっていた。
「―――――――――――――――――――。」
北。
家族の待つ、故郷がある場所。
自分達が目指す場所。
黒々とした不吉な影を少年は見つめた。その顔が微かに青ざめている。
だがやがて少年も踵を返した。
この館のもう一つの井戸で手早く鎖と靴を洗い、最後に手も洗う。
黒い服の女中から革靴の手入れ道具を一式渡されてはいたが、日に何度も洗われるこの靴は、駄目になるのも早そうだ。その点、木靴は気楽だったなとは思う。
手を振って水を弾く。
それからナギは、宙を睨むように顔を上げた。
気持ちが逸る。
じゃっ……。
鎖が地面を這った。
走りたいのに、走れない。
出来る限りの速足で、ナギは台所へと向かった。
いつもより少し早い時間の筈だ。
勝手口の前に立つと、食べ物の匂いが扉や窓から漏れ出していた。
手が震える。
それを抑え込むように、ナギは不必要に強い力でハンドルを握った。
がちゃ……。
扉を開けて、瞳に映るいつもの台所の光景。
その場所に崩れそうになったのを、両足に力を入れてナギは踏みとどまった。
手を止め、目を見開き、少女がこちらを見つめている。
涙が込み上げた。
ミル……!!
ほとんどひと月ぶりに見る、互いの姿だった。
台所の端と端で少しの間、二人は呼吸も忘れたように動かなかった。
小太りの料理人が、がちゃんと乱暴に椀を置くのが聞こえる。
今ミルと話が出来るのなら朝食を抜かれて構わないと思ったが、ナギは理性で感情をねじ伏せた。ミルは自分がジェイコブに殴られる姿を見たくはないだろう。
まだ震えている手で、少年は朝食の盆を取った。
牛小屋の掃除を終える頃に、ラスタが教えてくれていた。
ミルが今日、ここにいると。
一週間前、命も危ぶまれる状態だったミルをもう働かせようとするこの館の人間達が許せない。だが怒りは怒りとしてさておき、ミルの姿を見られたことは、ナギをとてつもなく安堵させた。
あの日を境に、ミルの体は急激に回復に転じていた。
盆を持ったナギが振り返ると、丸椅子の上でミルもこちらを振り返っていた。
今にも涙が溢れそうな目で、少女は少年に微笑んだ。
「………。」
ナギはようやく微笑み返した。目の淵に熱を感じる。
ひと月ぶりに会うミルはかなりやつれていて、着ている服は倒れたあの日と同じぼろぼろの古着だった。
それでもナギには、アメルダより館の娘達より、ミルの方が綺麗に見えた。
大丈夫?
唇の動きだけで尋ねた。無音のヤナ語に、少女が微笑みながら頷き返す。
と。
「ちょっとあんた何泣いてんのよ!!」
ヒステリックな喚き声に驚いて少年と少女が振り返ると、涙ぐむジェイコブを竈の前でタバサが怒鳴りつけていた。
ナギは盆を持ったままその場に固まった。
欠片も微笑ましくはない。
ジェイコブとハンネスだけでも息の根を止められないか。
一瞬、ナギにしては珍しいくらいのそんな物騒な思いすら抱いていた。
今の単純なヴァルーダ語は、ミルも分かってしまったかもしれない。少年はそっと少女の方へ向き直った。
そして台所の入り口に人がいることに気が付いた。
「!!」
ミルもほとんど同時にその存在に気付いていた。
少女の手から小刀が離れ、がしゃんという床を跳ねる金属の音で料理人達が振り返る。
黒い服の女だ。
いつそこに来たのか、花嫁の女中は台所の入り口に立っていた。
ナギはミルを庇うように前に出た。だが。
「何か御用ですか。」
詰問口調で言いながら、ナギの更に前に出たのはタバサだった。小太りの料理長も、他家の服を着ている女を睨む。
ミルの怪我に若夫人とこの女中が関わっているらしいと、館の人間達は皆薄々気が付いていた。
但し、タバサが前に出たのは情とかではなく、主人の「財産」を守ろうとする幾らかの職業意識と、後は利己的な理由だった。
汚い仕事やきつい仕事の多くを担っている奴隷の少女は、女中達にとって今やなくてはならない存在だったのだ。
背筋が寒くなる冷たい瞳が、タバサとナギ越しにミルを見つめる。
視線を感じて、黒髪の少女は震えていた。
台所に緊張が満ちた瞬間。
ガン、ガン、ガン、ガンッ………………
朝の領主の館に鐘の音が響き渡った。
突然の騒音を聞き、自室で過ごしていた新妻は窓の向こうを覗いた。
館の二階と三階の部屋の窓はほとんどが裏庭に向いて造られていたが、北と南の両端に位置する部屋の窓だけは正面側を向いている。
だから麦畑と門扉が見渡せた。
領主一家はようやく朝食の席に着いた時間だった。
まだ朝も早いそんな時間に、門柱に造り付けられた鐘を男が打ち鳴らしていた。
 




