160. 竜人少女の大切な存在
◇ ◇ ◇
「やっぱりいるな。」
ミルの様子を見る度に、ラスタはその部屋の主のことも教えてくれた。
狩りにも行かなければならないラスタが一日中ミルを見ていられる訳ではなかったが、どうもあの老女中はずっとミルの傍に付いているらしい。
ヘルネスの指示なのかもしれない。
お蔭でナギはもちろん、ラスタもミルと話をする機会を掴めないままだ。
ミルとアメルダの様子をラスタから聞けなかったら、こんなに冷静ではいられなかったかもしれない。ミルの容態をナギに教えようとしてくれる者は、館の人間にはいなかった。
毎日朝と夕方に、ナギはラスタからミルの様子を聴いた。ミルが倒れてから数日の間、竜人少女の告げる話にはほとんど変化がなかった。
「まだ寝ている。」
「もう休むみたいだ。」
見えていることを言葉にすると、そうとしか表現しようがなかったのかもしれない。
そしてミルが倒れた日から、一週間が過ぎた。
回復に時間が掛かり過ぎている。
同じような報告を繰り返すラスタの表情が、少しずつ強張り出していることに少年は気が付いた。
その日の夕方、ナギが口を開いた時、一瞬だけ奇妙な間が生じた。
尋ねることが怖かった。
竜人少女が、戸惑うようにナギの言葉を待っている。
一拍を置いて、少年は肺から絞り出すように言葉を紡いだ。
「ミルの様子は、倒れた日より悪い?」
その問いに、ラスタの表情が固くなる。
だが小さな少女は、感情を抑え込むようにしてぐいと頷いた。
「――――――――――――――うむ。」
「………。」
膝の上で、ナギは二つの拳を握り締めた。
もう闇が落ちようとしている。それなのに今夜は、暖かい。
季節の変化がまるでミルだけを置き去りにして行こうとしているように思えて、胸の中で、ナギは必死にミルに手を伸ばした。
―――――――――――――――時間がない。
分かっている。
―――――――――――――――まだ十三人いる。
分かっている。
ようやく奴隷商人の居場所を掴んだというのに、もう一週間、仲間の捜索も脱出の準備も止まっている。
何があったとしても、本当はナギに立ち止まっている時間はない筈だった。
牛小屋から急激に光が失われて行く。
向かいに座る竜人の少女が、心配そうに自分を見つめていた。
「……ミルは、お母さんに届け物を頼まれたんだ。」
ナギの話は唐突だった。小さな少女が困惑の表情を見せる。
「親戚のお家に届け物に行って、ミルはその帰りに奴隷狩りに遭ったんだ。」
くぐもる声でそう告げると、ナギは顔を伏せ、両の拳に額を付けた。
ミルが何をした。
お母さんの手伝いをしただけなのに。
ミルのお母さんは、その日のことをどれだけ悔いているだろう。
もしミルが戻らなければ、その後悔は、きっと生涯和らぐことはないだろう。
耐え難かった。
ミルを救えないことが。
立ち止まることが許されない状況が。
歩き出すことが出来ない自分が。
ごっ……
「ナギ?!」
幼い声が叫ぶ。
「ナギ!!よせ!!」
何か柔らかい物に跳ね返される感覚があって、何度目かの拳は、ナギの額に届かなかった。
「………っ!!」
ラスタの「力」だ。
すぐにそう分かった。
でも今、自分を滅茶苦茶にしてしまいたい。顔を上げ、半分抗議するように、少年は竜人の少女を見やった。
と。
「なんでナギとミルがこんな目に遭うんだ!!」
怒りの眼差しでラスタがそう叫んだ。そこにミルの名前が含まれていたことに、ナギは驚いた。同時にその声が涙声であることに気が付いて、はっとした。
ナギの行動を止めるのに自分の手も使おうとしたのか、床に両膝を立てた少女は、身じろぎすれば体が触れそうなくらいすぐ目の前に来ていた。
薄闇の中に灯る青い光の中に、微かに別の光が滲んでいる。
「―――――――――――――――――――――――――――――」
自分のために、小さなラスタを泣かせるのは最低だ。
「ごめん……」
少年の拳は、ゆっくりと膝の上に戻った。
額はじんじんと、痺れるように痛んでいた。
「ごめん、ラスタ。」
もう一度ゆっくりと告げると、ラスタも少し落ち着いたようだった。
まだ微かに視界の残る小屋の中で、二人は膝をくっつけ合うようにして静かに座った。
牛達が蠢き、小さく鳴き声を上げている。
毎日騒がしい隣人のことを、彼らはどう思っているのだろう。
少し前向きに考えよう。
もしもの時に、心の準備がないと耐えられない気がする。それを覚悟の上で、ラスタを泣かせたくなかった。
ミルが治らないと決まった訳ではない。
「ミルが治った時のことを考えよう。」
そう言って無理にも前向きに考え出すと、それ程経たない内に少年は違う問題に気が付いた。
―――――――ミルが治ったとして、夏までにどれくらい回復するだろう。
ミルの回復の程度は、脱出の計画に影響する。
複数の状況を想定して備えておかなければならないのは、むしろ運がミルを守った場合だった。人里を避けて行く過酷な旅には、体力がいる。
左の拳を額に押し付ける。痛みが走った。
巨大なヴァルーダから十三人の仲間を見つけ出し、脱出させられるかもしれない時間は限られている。ラスタが小さい間でなければ、難しいことがあった。
でも自分とミルの脱出は、この夏には叶わないかもしれない。
おそらく遅くなる程に危険は増すだろう。
「――――――――――――――――――――――」
少年が顔を上げた頃には小屋の中はすっかり暗くなっていて、青い光しか見えなくなっていた。
「ラスタ……。―――――――――――――――お願いがあるんだ。」
「――――――うむ?」
もしもの場合のことだった。
元々ラスタが小さい間に全てを終わらせる計画だったが、消えることも飛ぶことも出来ない人間の自分は、最後まで無事でいられるか分からない。
「もしもこの先、僕がヴァルーダに捕まってしまったり、もしかして命を落としたりしてしまっても――――――――ラスタが小さい間だけでいいんだ――――――――僕がいなくなっても、ミルと仲間を、助けて貰えないか。」
青い瞳が見開かれた。
「ナギ以外はついでだって言ったろうっ!!」
「………。」
「わたしが大好きなのはナギだけだ!!」
「………。」
それは多分、嘘だと思う。ラスタはきっと、ミルのことも嫌いではない。
「無茶なことを言ってごめん。でももしもの時は、ラスタにしか後を頼めないんだ。ミルも仲間達も、僕には大切なんだ―――――――――――頼むよ、ラスタ。」
「―――――――――――――――――――――――!」
竜人少女は顔を逸らした。
「わたしが大好きなのはナギだけだ!」
「―――――――――――――――――――――――――――――――――――」
数秒、二人の「部屋」に沈黙が落ちた。
しばらくして――――――――――――
青い光が静かに、ナギの方へと向き直った。
「……………ナギのことが大好きだから」
ナギと竜人少女の瞳が真っ直ぐに合う。
「…………ナギの大切な奴は、わたしも大切にしてやる。」
「………………!」
少年はその時、胸の奥に切り刻まれるような痛みを感じた。
◇
それから更に一週間程して、ナギとラスタが待っていた日が訪れた。
老女中が、月に数度の薬草摘みに出掛けたのだ。
鶏小屋の掃除に取り掛かろうとした時に門を出て行く老女中の姿に気が付き、ナギは急いで牛小屋に戻った。
「ラスタ!」
「うむ!」
竜人の少女も既に老女の外出に気が付いていたようだった。
ようやくミルと話が出来る―――――――――――――――――部屋に行けるのはラスタだけだが、小さな物なら届けられるかもしれない。
願いを、ナギはラスタに託した。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
翌日。
ナギが沐浴に向かおうとすると、その日の少年の監視役が足枷の鍵以外に、奇妙な物を手にしていた。
見覚えはある物だった。
―――――――――――それはナギがここに買われてからしばらくの間、牛小屋に付けられていた錠前だった。
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