16. 懲罰
「ど…………」
どうして、と言いかけて言葉を飲む。
館の人間達は彼らにとって必要な話以外で、ナギが口を利くことを許さなかった。
なぜミルがそこにいるのかは、見れば分かった。
彼女は二つ並べられた桶の前で、小さな丸椅子に座っていた。
皮を剝かれた根菜と剥かれた皮が、それぞれの桶に山盛りになっていて、その皮を剥いているのが、ミルだったのだ。
だがナギが問いたいのは、「なぜミルがそれをやらされているのか」だ。
休ませないのか?!
ナギが目にしただけでも、彼女は上半身の全てが包帯で覆われる程の怪我をしているのに。
少女の足には、ナギと同じように鎖が付けられていた。
でもミルは昨日、足を引き摺っていた。
その足に、鉄の重りを付けるのか。
勝手口を入って右寄りには大きな調理台が二つ、ナギからミルの方へと台所を横切るように並んでいる。調理台向こうの壁際で、ミルは横を向いて座っていた。
ちょうど斜めに向かい合うように、二人の瞳は合った。
ナギの表情は強張ったが、ミルの顔には安堵の色が浮かんだ。
少女にとっては、同じ言葉を知る少年との半日ぶりの再会だった。
ミルはまだ、ナギが毎日をどこで過ごしているのかを知らない。
ナギの「部屋」がどこであるのかも教えられていなかった。
尋ねようにも、誰とも言葉が通じなかった。
異国で売られて何も分からず、尋ねることも出来ずに過ごした一晩。
自由に会話出来る様子ではないことに彼女はちゃんと気付いていたが、それでも少年との再会は、彼女を安心させていた。
ミルがほっとした表情をしたことも、その理由もナギには察することが出来た。それでもナギは、なおも数瞬立ち尽くしていた。
少年の視線が僅かに動き、ジェイコブに向く。
勝手口から見て右の突き当りはほとんど壁面の幅一杯の大きな竈で、ジェイコブはそこでブワイエ家の朝食を作っている最中だった。
ナギは未だに館に何人の人間がいるのか知らない。だが少なくとも三十人は確実にいるのは分かっていた。その全員の食事を請け負っている台所では、常に幾つもの鍋が大きな竈に掛けられていて、壁面や床の上にまで、所狭しと調理道具や食材が置かれている。
小太りの料理長は不快気にナギを睨んでいた。
いつも調理の補助をしている高齢の女中も隣に並んでいて、彼女の視線も変わらず冷たい。
何か言えば殴られかねず、抗議がなんの利益ももたらさないのは、分かっている。
だが表情までを堪えることが出来ず、奴隷の少年の非難がましい瞳に気が付いて、ジェイコブのこめかみにたちまち青筋が立った。
もうなんの正当性もないような、くだらないことをきっかけにキレるだろう。
ジェイコブの感情の沸点がどれだけ低いかナギは経験で知っており、緊迫した空気が部屋を包んだ。
◇ ◇ ◇
ここに売られて一年が過ぎた頃、ナギはジェイコブに命じられた仕事で、しくじったことがある。
丸一日食事を抜かれて、倒れたのはその時だ。
そもそもはジェイコブが自分の仕事をナギに押し付けたのが、ことの発端だった。
ジェイコブは、毎日昼頃に鶏小屋に行くことになっている。
鶏達の昼食となる野菜屑を持って行き、その日の卵を回収して戻って来るのは、料理長のジェイコブの役目だった。
今四十羽程いる鶏は三羽が雄で、後は雌鶏だったが、その全てが毎日卵を産む訳ではない。
一日に採れる卵はせいぜい二十個から三十個で、へルネスの一家七人が食した後、残った卵も菓子などに使われるため、滅多なことでは使用人達の口には入らない。
不届き者による窃盗の心配があり、貴重なごちそうの回収は、下っ端の使用人には任せられなかった。
だがこの地方には珍しい大雨が降った日、ジェイコブはその仕事をナギに押し付けた。太った料理人は、小屋への往復でびしょ濡れになるのが、嫌だったのだ。
雌鶏は、小屋の中に設けられている産卵箱の中に卵を産む。
周囲から隠れて卵を産みたがる鶏の習性を利用したもので、中を複数のスペースに区切った細長い産卵箱は小屋の外に突き出ていて、その蓋を開けば、小屋の外から卵を回収出来る仕組みになっている。
貴重な品が入った箱には鍵が掛けられているのだが、ジェイコブはあの日、野菜屑の入った木桶と一緒にその鍵をナギに渡した。
「濡れたくないから」という理由で、重要な仕事を奴隷に押し付けるジェイコブの態度は、ナギにはかなり不快だった。
その日畑仕事は休みになったが、雨が降ろうと雪が降ろうと家畜の世話は休めなかったし、館の台所まで来なければ食事が貰えないナギは、既にずぶ濡れだったのだ。
「鍵をなくしたらただじゃおかねぇぞ!!」
理不尽に怒鳴られながら、やむを得ずナギは鶏小屋に向かった。
自分の昼食は、まだ貰えていなかった。
珍しい大雨の中でも鶏達はちゃんと卵を産んでくれていて、ナギは持たされたバスケットに、鶏達のその日の成果を回収した。
慣れない作業で、視界が悪く、地面はぬかるんでいた。
館へ戻る道で、ナギはぬかるみに足を取られた。
咄嗟に、足を大きく踏み出してしまった。
自分の足に鉄が絡み付いていることを、忘れて。
全身を泥に打ち付けるようにして、ナギは転んだ。
かしゃかしゃと卵が割れる小さな音が、雨の中でそこらじゅうから聞こえた。
血の気の引く思いでナギは起き上がった。
泥の中に、卵の残骸が転がっていた。
無事に回収できた卵は、四つだけだった。
ジェイコブが卵の回収作業をナギに押し付けたことは主人に知らされなかったが、少年奴隷が卵を割ったことだけは報告された。
「食事を抜く」仕置きを決めたのはヘルネスだった。だがその罰が決められる前に、もうナギには刑が加えられていた。
へルネスに報告が行く前に、バスケットに四つだけの卵を入れて戻ったナギは、何度もジェイコブに殴られていた。
翌日にナギが倒れたため、ジェイコブのこの行為は後で問題になった。
ブワイエ家にとっては、奴隷に死なれては大損だからだ。
以来、ナギに与えられる罰は、「ナギがいつも通りに仕事をこなせる範囲」で調整されるようになっている。
◇ ◇ ◇
今にも怒鳴り出しそうな表情のまま、ジェイコブが叩き付けるように木の椀を調理台の上の盆に置く。
粗暴さに、ミルが目を丸くする。
木製の盆の上にはパンと野菜が盛られた木皿が既に載せられていて、今加えられた煮物と合わせた三品が、ナギの食事である。季節によって煮物の中味と野菜の種類は変わるが、この品数と構成は一年を通して、そして三食とも、ほぼずっと同じだった。
小太りの料理人は「ミルについて何か文句があるのか」とでも言いたげな目でナギを睨んでいた。
言いたいことはもちろん、山程ある。
だが奥歯を噛みしめると、ナギは黙って朝食の盆を両手で持った。
ナギが食事を摂る場所は、台所の物置きの中だ。
ちらりとミルに視線を向ける。
互いに訊きたいことや話したいことがそれぞれあったが、言葉を交わすことは出来ない。
ナギは、せめてなるべくミルの近くを通って行こうとした。
ジェイコブは、ちょうど卵の調理をしようとしているところだった。
昨日の昼に回収した卵が、今日のブワイエ家の朝食に供されるのだ。
ナギには関係ないことだった。
大丈夫?
通り過ぎながら唇だけ動かして、ナギはミルに尋ねた。
大丈夫ではなかったかもしれないが、黒髪の少女も黙って、ただ小さく頷いて応えた。
かしゃんっ!
その時、奇妙な音がして、ナギはゆっくりと振り返った。
調理台の向こうで、ジェイコブが真っ青な顔をして床を見つめている。
視線の先で、幾つもの卵が砕けていた。
ただ驚いて、ナギはその様子を見つめた。
数瞬の静けさ。
次の瞬間、顔を上げたジェイコブが、ナギに向かって罵声を浴びせた。
「このクソガキが!!何しやがる!!」
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